「プロミス」憎しみを解き放つためには?

パレスチナの話もやっと先が見えてきた。これから数回に分けて今まで紹介しきれなかった関連の映画を一気に書いてしまいたい。
僕らが普通にビデオレンタルできるパレスチナ関連の映画は数える程度。見つかればラッキーな方で、一本たりとも置いてない店はざらにある。(パラダイス・ナウくらいかな?どこにでもあるのは・・)なので最近はネットレンタルをしている。簡単に目的の作品を検索できるし、タイトルも豊富。しかも安いので助かっている。その中からいくつかリストアップして片っ端から借りていった。
さて今回のテーマは憎しみ。ところでみなさんの回りに明確な敵はいますか?たいていは嫉妬したり嫌ったりすることはあっても憎んだりはしないよね?それじゃ僕らが人を憎む時ってどんな場合なんだろう。それはおそらくどんなものであれ、大事なモノを盗まれた時じゃないかな?お金はもちろん、恋人の心、愛する人の生命。奪った相手をひたすら憎み、復讐したいと願うのだ。でも犯罪率の少ないニッポンにおいてそんなことはめったに起こらない。だから必然的に日本人は人を憎む事に鈍感だ。憎むべき対象が回りにないので、憎み合ってる人達を見てもピンとこない。
ここ最近の殺人事件で「殺す相手は誰でも良かった」という犯人の動機をよく聞く。つまり無差別に人を殺していく。一種のテロ行為なんだけど、パレスチナ自爆テロとは意味合いが違ってくる。殺したい対象がはっきりしてないのだ。誰かが憎いわけじゃない。漠然とした憎しみがただ暴走する。これはタチが悪い。だって殺したところで復讐したことにならないからね。ほっとけばいつまでも殺し続けるしかない。相手がはっきりしてくれると無駄に死ぬ人もいなくなるのにと、つい思ってしまう。
パレスチナ人もイスラエル人もお互いに憎しみ合っている。でも全ての土地・財産、尊い命を奪われたパレスチナ人の方がずっと憎しみの度合いは大きいだろう。いわばイスラエル人は盗人だ。それを知っているからこそパレスチナ人を恐れ、排除しようとするのかもしれない。でも憎しみ続けるには条件がいるよね。それは相手を知らないこと。日本がかつて敵国を鬼畜米英と呼んだように、憎むためには相手が人間であってはならないのだ。相手が人間だと思ったらそう簡単に殺せないよ。相手にも愛する妻や子供がいるなんて想像したら殺せない。敵は人間の心を持たないモンスターでなければならないのだ。最初に紹介する映画は「プロミス」という作品。この映画は敵の相手を知ろうとする試みを描いたドキュメンタリーなのだ。

「プロミス」

内容
パレスチナイスラエルの国境を越えた子供たちの交流を描くドキュメンタリー映画パレスチナイスラエル双方の子供たちは、住居は近いにも関わらずお互いのことを全く知らない。ゴールドバーグ監督は、双方の子供たちを引き合わせようとするが…。

この映画が制作されたのは1997年〜2000年の間。ちょうどイスラエルパレスチナの関係が比較的平穏な時期だったそうだ。今ならこの撮影は困難だろう。イスラエル人が両地域を行ったり来たりするのは危険極まりないし、子供通しの交流なんてありえないだろうから。そういう意味でとても貴重な映像記録ではないかな?
子供ってのは実に率直なので、親の考えもそのまま反映されてしまうし、言いにくいことをあけすけに話してくれる存在だ。例えば僕はタバコを吸うんだけど、ある友人の子供に会うと必ず怒られてしまう。「タバコは体に悪いんだよ」「タバコ臭〜い」なんてボロクソに言われる。それはそれで可愛いからいいんだけど、きっと親は普段からタバコの弊害をしきりに話してるのだ。その反映なんだよね。でも決してその友人は僕に面等向かって言わない。それが大人の付き合いというものだ。
この映画は子供達の声を通して、両民族の本音を浮き彫りにすることに成功している。子供達の誤摩化さない言葉は実に過激。でも彼らは周囲の大人達の代弁をしているに過ぎない。何か別の価値観が入ってくれば感化されやすいし、まだ自我は発展途上にあるのだ。とはいいつつ、得てしてそのまま大人になっていくのがほとんどなんだろうけどね・・・
この映画には7人の子供達が出てくる。実際は200人の子供を取材したらしいんだけど、かなりデリケートな問題を扱った映画なので、親に撮影を許可されないケースがほとんどだったらしい。それはそうかもしれない。場合によっちゃテロのターゲットになりかねないからね。
映像を観ると、なるほど確かにそれなりに平和だったことが窺える。イスラエル人はテロに怯えながらもごく普通の日常を送ってるし、貧乏のどん底ってイメージのパレスチナ人もそれなりの暮らしをしている。この映画を観てよく解ったのは、イスラエル人は住む地域によって考え方がかなり異なっているということだ。パレスチナ人に対して理解を示そうとする人達がいる一方で、アラブ人を皆殺しにしたいと考える人達もいる。かなり温度差があるのだ。その点パレスチナの方が単純明快。過激さの違いはあれどイスラエルに対して憎しみを抱いているのは一貫している。
こんなシーンがあった。イスラエル人を毛嫌いするパレスチナ人の子供に、監督は「僕もイスラエル人だよ」と告げる。すると、その子はその事実を受け入れられないんだな。それまでの取材で心を通わせた相手なのだ。そんなことあってはならない。「おじさんはアメリカ人だろ?」「確かに今はアメリカに住んでるけど、故郷はイスラエルだ。生粋のイスラエル人だよ」彼はその答えにショックを受けながらも、必殺の言葉を使ってその場をしのぐ。「じゃあ、おじさんは特別なんだよ・・・」 そうだよね。例外中の例外なのだ。彼にとってイスラエル人はみんな悪い人でなくてはならない。でなきゃ彼の信じてたものは壊れてしまうのだ。モンスターだと思っていた敵が、実は自分と同じ人間であり、同じような感情を持っているのだと知ること。それこそが憎しみを解き放つ第一歩になるのかもしれない。
監督は双方の子供達を引き合わせたいと考える。まずは電話で会話をさせてみた。言語が違うので慣れない英語での会話。お互いサッカーが大好きで、友に好きなチームがブラジルであることを知った。意気投合する二人。たったこれだけのことでも彼らには新鮮な喜びがあったに違いない。敵だと思っていた存在が同じものを好きなんて考えもしなかったことだろうからね?こうして双方は会う事となる。イスラエルの子がパレスチナキャンプに出向き、しばし楽しい時を過ごしたのだった。その後彼らはどうなったか?
イスラエル人のヤルコ(左)とパレスチナ人のファラジ(右)が出会う

その出会いは特にパレスチナ人の子供にとって衝撃的なものだった。だってそれまで彼らにとってイスラエル人は極悪非道のモンスターだったんだからね。パレスチナの子はまた会いたくて何度もコンタクトを取ろうとした。でもイスラエルの子は二度と返事を寄越さなかったという・・・
僕らからすればとても残念なことだよね?お互いの人間性を垣間みることで、今まで抱いていた憎しみの感情を修正したに違いないんだから。今後友人として付き合っていく道もあったはず。でもそうはいかなかった。どうしてなのか?お互いの立場になって考えれば解らなくもない。
パレスチナの子にとって、彼らの存在は一つの希望に映ったのだろう。彼らと関わる事で何か突破口が開けるような思いがあったに違いない。たいていのパレスチナの若者は今の状況から抜け出したいと願っている。「パラダイス・ナウ」の主人公達もそうだった。でも現実は何も変えられない。未来さえも描けないのだ。そんな時、自分たちを理解してくれる敵国の友人が出来た。はっきりとした目的はなくても、真っ暗闇に一筋の光が射したような気がしたと思うんだよね。片や、イスラエル人の子はその熱意を受け止められなかった。重いと感じたのだろう。だって彼らには間違いなく前途有望な未来が開けているのだから。そんな切実さなど到底共有できないし、理解もできないのだ。そのクールさが悲しいよね。でも僕ら日本人だってイスラエル人の子供と同じ立場ならどうかな?やっぱり大半はコンタクトしなくなるんじゃないかな?その切実さを自分の問題として考えられないと思うんだよね。だって僕らは何も奪われてないんだから・・・

監督は今でも子供達と連絡を取り合ってるそうだ。ぜひ大人になった彼らも追いかけて続編を作って欲しいという思いもあるけど、そのためにはもっと多くの人がこの作品を観ないといけないよね。ぜひ観て下さい。