その他のイスラエル映画を観る
前回はちょっと熱くなって長くなってしまった。今回はさらっと残りの映画を紹介します。
まずはイスラエルのアモス・ギタイ監督の二作品。僕は個人的にはあまり好きな監督じゃない。イスラエルを代表する監督という事で見た。まずは「キプール」から
「キプール 勝利なき戦場」
あらすじ
1973年10月6日、それはイスラエルの重要な祝日、贖罪の日(ヨム・キプール)。突然、第4次中東戦争が始まった。ワインローブとルソは、兵役で従事する部隊に車で向かったが、戦争の混乱でたどり着けず、途中で出会った軍医とともに、仕方なく救急部隊に合流した。すぐさま任務につかされた。ワインローブ、ルソ、軍医ともう一人ガダッシの4人チームとヘリのパイロット・ヨラム大尉ら3人の計7人で、戦場でケガをした兵士を救出し、ヘリで病院へ輸送するというものだった。しかし戦場に足を踏み入れてみれば、そこは地獄絵図。ころがる死体、うめく重傷兵士たち。思うように救出ははかどらず、死体となった同朋達を見捨てて去るしかなかった。
冒頭、男と女が何故か体に絵の具を塗りたくりながらSEXしてる。それが延々と数分間続く。原色の絵の具が混じり合う様が、混沌を表現してるらしいんだけど、こういうのは好きじゃないんだよね。これは好みの問題。でもそれさえ我慢すれば、それなりに観れる作品だった。というのもこの映画は通常の戦争を描いていないから・・ドンパチするわけじゃなく、戦場の後処理をする連中の話なのだ。そんなわけで敵は出てこない。遠くで銃声は聞こえるけどその姿はなく、結果だけが戦場に残されている。転がる死体の数々。「お前達のやったことはこういうことだよ」って監督は言いたいのかな?とても淡々としているので、ドラマチックさなどほとんどない。それをリアルと捉えるか、退屈と捉えるかで評価は別れるんだろうね。でもパレスチナ問題には全くといっていいほど触れてないので・・・観なくていいかな。
「フリーゾーン 明日の見える場所」
あらすじ
イスラエルの名匠、アモス・ギタイ監督が『レオン』のナタリー・ポートマン主演で描いたヒューマンドラマ。失恋し行く先も定まらないレベッカは、通称「アメリカ人」に会いにヨルダンに行くというハンナのタクシーに乗り、一緒にヨルダンに向かうが…。
この映画も同じ監督なんだけど、冒頭、10分以上に渡ってナタリー・ポートマンの泣き顔のアップが長回しされるんだよね。これって深読みしちゃうよ。よっぽどの事があったのかなあ?って。でもそうでもないんだよね。とてもつまらないこと。もちろん、観ている僕らにとってね。これは堪らんよ。意味深な曲がその間流れてるんだけど、その歌詞を聴いてもらいたいだけの演出としか思えないんだよね。やっぱり好きじゃないなあ。でも後半はそれなりに面白かった。パレスチナ人の女性、イスラエル人の女性、アメリカ人の女性(ナタリーね)がひょんな事で一台の車に同乗するんだけど、そこでのパレスチナ女とイスラエル女の口論(というか罵り合い)がとても面白かった。女性だから暴力は出てこないけど、こんな調子じゃ和平なんて無理だって思うよ。最後、その口論に嫌気がさしたのか、ナタリーが一人車から降りて、その場から走り去っていくシーンがあるんだけど、これってアメリカの態度を示したものなのかね?まあ、奇妙なシーンだったよ。ナタリー・ポートマンってユダヤ人なんだね。知らなかった。彼女は才女として有名なんだけど、それってユダヤ人だってことも関係あるんだろうね。それにしてもこんな地味な映画にも出るとは大したもんだ。
「約束の旅路」2005年
あらすじ
イスラエルが行った実在の難民移送作戦“モーセ作戦”を題材にしたヒューマンドラマ。ユダヤ人と偽り、スーダンの難民キャンプからイスラエルへと脱出した9歳のエチオピア人少年。真実の名前を隠し新しい土地で生きる少年の葛藤と苦難の人生を描く。
これもイスラエル映画なんだけど、ドラマチックな話になっている。意外な掘り出し物だよ。普通ならユダヤ人って隠す映画ばかりだと思うけど、この映画はユダヤ人になりすますお話。それだけでも新鮮でしょ?ユダヤ人って顔じゃ判らないからね。ユダヤ教を信じてるって言い張れば、それでユダヤ人なのだ。だから主人公の親は彼に未来を与えるために、ユダヤ人になれって言うんだよね。これは切ないよ。彼は素晴らしい里親に育てられるんだけど、それが彼を苦しめるんだな。騙してるような想いに囚われちゃう。この映画はそんなイスラエルの市民生活を描き出していく。ユダヤ人の審査があったり、有色人種への差別があったり、さまざまな社会的矛盾を抱えているのだ。だってイスラエルは豊かだからね。自分の素性を偽ってでも入国したいと思ってる人は沢山いると思う。ぜひご覧あれ。
「1000の言葉よりも 報道写真家ジブ・コーレン 」
あらすじ
パレスチナ紛争の最前線で活躍するイスラエル人写真家、ジブ・コーレンの素顔に迫ったドキュメンタリー。危険な戦況の中、彼がシャッターを切り続けるのはなぜなのか、家族との会話や友人へのインタビューを通して彼の内に潜む思いを紐解いていく。
この人はバスの自爆テロ直後の写真を撮って一躍有名になったのだという。余りに悲惨なその光景は世界に配信され、TIMEの表紙も飾ったらしい。その写真はこの映画のオフィシャルページで観れます。自爆テロの恐ろしさを1000の言葉より如実に教えてくれます。心臓の弱い人は観ないように。
http://www.uplink.co.jp/1000words/gallery.php
典型的な報道写真家のイメージだ。常に危険地域に身を置き、スクープを狙っている。もうそれが彼の生き方。もはやお金の問題じゃなく、自分の使命と捉えている。彼はイスラエル人だけど、パレスチナの地域にもズカズカ入っていく。どう見ても長生きできそうにない。その生き様をご覧になりたい方はどうぞ。
まだ観てないんだけど、もう一本紹介する映画『パレスチナ1948・NAKBA(ナクバ)』だ。この映画は日本人の広河隆一氏が作ったドキュメンタリー。この人はいわばパレスチナ問題のエキスパートで、数十年前から取材を重ねてきた写真家なのだ。僕も広河氏の書いた本からかなり知識を貰いました。なのでぜひ観てみたい。観たらブログで報告したいと思います。
http://nakba.jp/
『パレスチナ1948・NAKBA(ナクバ)』
てな感じで駆け足で書いた。しばらくはパレスチナ問題は書かないつもり。今、イスラエルの政界は「和平派」よりも「強硬派」が勢力を伸ばしているそうだ。ますますイスラエルは過激な行動を続けるに違いない。和平はしばらくないだろう。
次回から、ちょっと「落語について」書いてみたいと思う。
「プロミス」憎しみを解き放つためには?
パレスチナの話もやっと先が見えてきた。これから数回に分けて今まで紹介しきれなかった関連の映画を一気に書いてしまいたい。
僕らが普通にビデオレンタルできるパレスチナ関連の映画は数える程度。見つかればラッキーな方で、一本たりとも置いてない店はざらにある。(パラダイス・ナウくらいかな?どこにでもあるのは・・)なので最近はネットレンタルをしている。簡単に目的の作品を検索できるし、タイトルも豊富。しかも安いので助かっている。その中からいくつかリストアップして片っ端から借りていった。
さて今回のテーマは憎しみ。ところでみなさんの回りに明確な敵はいますか?たいていは嫉妬したり嫌ったりすることはあっても憎んだりはしないよね?それじゃ僕らが人を憎む時ってどんな場合なんだろう。それはおそらくどんなものであれ、大事なモノを盗まれた時じゃないかな?お金はもちろん、恋人の心、愛する人の生命。奪った相手をひたすら憎み、復讐したいと願うのだ。でも犯罪率の少ないニッポンにおいてそんなことはめったに起こらない。だから必然的に日本人は人を憎む事に鈍感だ。憎むべき対象が回りにないので、憎み合ってる人達を見てもピンとこない。
ここ最近の殺人事件で「殺す相手は誰でも良かった」という犯人の動機をよく聞く。つまり無差別に人を殺していく。一種のテロ行為なんだけど、パレスチナの自爆テロとは意味合いが違ってくる。殺したい対象がはっきりしてないのだ。誰かが憎いわけじゃない。漠然とした憎しみがただ暴走する。これはタチが悪い。だって殺したところで復讐したことにならないからね。ほっとけばいつまでも殺し続けるしかない。相手がはっきりしてくれると無駄に死ぬ人もいなくなるのにと、つい思ってしまう。
パレスチナ人もイスラエル人もお互いに憎しみ合っている。でも全ての土地・財産、尊い命を奪われたパレスチナ人の方がずっと憎しみの度合いは大きいだろう。いわばイスラエル人は盗人だ。それを知っているからこそパレスチナ人を恐れ、排除しようとするのかもしれない。でも憎しみ続けるには条件がいるよね。それは相手を知らないこと。日本がかつて敵国を鬼畜米英と呼んだように、憎むためには相手が人間であってはならないのだ。相手が人間だと思ったらそう簡単に殺せないよ。相手にも愛する妻や子供がいるなんて想像したら殺せない。敵は人間の心を持たないモンスターでなければならないのだ。最初に紹介する映画は「プロミス」という作品。この映画は敵の相手を知ろうとする試みを描いたドキュメンタリーなのだ。
「プロミス」
内容
パレスチナ、イスラエルの国境を越えた子供たちの交流を描くドキュメンタリー映画。パレスチナ、イスラエル双方の子供たちは、住居は近いにも関わらずお互いのことを全く知らない。ゴールドバーグ監督は、双方の子供たちを引き合わせようとするが…。
この映画が制作されたのは1997年〜2000年の間。ちょうどイスラエルとパレスチナの関係が比較的平穏な時期だったそうだ。今ならこの撮影は困難だろう。イスラエル人が両地域を行ったり来たりするのは危険極まりないし、子供通しの交流なんてありえないだろうから。そういう意味でとても貴重な映像記録ではないかな?
子供ってのは実に率直なので、親の考えもそのまま反映されてしまうし、言いにくいことをあけすけに話してくれる存在だ。例えば僕はタバコを吸うんだけど、ある友人の子供に会うと必ず怒られてしまう。「タバコは体に悪いんだよ」「タバコ臭〜い」なんてボロクソに言われる。それはそれで可愛いからいいんだけど、きっと親は普段からタバコの弊害をしきりに話してるのだ。その反映なんだよね。でも決してその友人は僕に面等向かって言わない。それが大人の付き合いというものだ。
この映画は子供達の声を通して、両民族の本音を浮き彫りにすることに成功している。子供達の誤摩化さない言葉は実に過激。でも彼らは周囲の大人達の代弁をしているに過ぎない。何か別の価値観が入ってくれば感化されやすいし、まだ自我は発展途上にあるのだ。とはいいつつ、得てしてそのまま大人になっていくのがほとんどなんだろうけどね・・・
この映画には7人の子供達が出てくる。実際は200人の子供を取材したらしいんだけど、かなりデリケートな問題を扱った映画なので、親に撮影を許可されないケースがほとんどだったらしい。それはそうかもしれない。場合によっちゃテロのターゲットになりかねないからね。
映像を観ると、なるほど確かにそれなりに平和だったことが窺える。イスラエル人はテロに怯えながらもごく普通の日常を送ってるし、貧乏のどん底ってイメージのパレスチナ人もそれなりの暮らしをしている。この映画を観てよく解ったのは、イスラエル人は住む地域によって考え方がかなり異なっているということだ。パレスチナ人に対して理解を示そうとする人達がいる一方で、アラブ人を皆殺しにしたいと考える人達もいる。かなり温度差があるのだ。その点パレスチナの方が単純明快。過激さの違いはあれどイスラエルに対して憎しみを抱いているのは一貫している。
こんなシーンがあった。イスラエル人を毛嫌いするパレスチナ人の子供に、監督は「僕もイスラエル人だよ」と告げる。すると、その子はその事実を受け入れられないんだな。それまでの取材で心を通わせた相手なのだ。そんなことあってはならない。「おじさんはアメリカ人だろ?」「確かに今はアメリカに住んでるけど、故郷はイスラエルだ。生粋のイスラエル人だよ」彼はその答えにショックを受けながらも、必殺の言葉を使ってその場をしのぐ。「じゃあ、おじさんは特別なんだよ・・・」 そうだよね。例外中の例外なのだ。彼にとってイスラエル人はみんな悪い人でなくてはならない。でなきゃ彼の信じてたものは壊れてしまうのだ。モンスターだと思っていた敵が、実は自分と同じ人間であり、同じような感情を持っているのだと知ること。それこそが憎しみを解き放つ第一歩になるのかもしれない。
監督は双方の子供達を引き合わせたいと考える。まずは電話で会話をさせてみた。言語が違うので慣れない英語での会話。お互いサッカーが大好きで、友に好きなチームがブラジルであることを知った。意気投合する二人。たったこれだけのことでも彼らには新鮮な喜びがあったに違いない。敵だと思っていた存在が同じものを好きなんて考えもしなかったことだろうからね?こうして双方は会う事となる。イスラエルの子がパレスチナキャンプに出向き、しばし楽しい時を過ごしたのだった。その後彼らはどうなったか?
イスラエル人のヤルコ(左)とパレスチナ人のファラジ(右)が出会う
その出会いは特にパレスチナ人の子供にとって衝撃的なものだった。だってそれまで彼らにとってイスラエル人は極悪非道のモンスターだったんだからね。パレスチナの子はまた会いたくて何度もコンタクトを取ろうとした。でもイスラエルの子は二度と返事を寄越さなかったという・・・
僕らからすればとても残念なことだよね?お互いの人間性を垣間みることで、今まで抱いていた憎しみの感情を修正したに違いないんだから。今後友人として付き合っていく道もあったはず。でもそうはいかなかった。どうしてなのか?お互いの立場になって考えれば解らなくもない。
パレスチナの子にとって、彼らの存在は一つの希望に映ったのだろう。彼らと関わる事で何か突破口が開けるような思いがあったに違いない。たいていのパレスチナの若者は今の状況から抜け出したいと願っている。「パラダイス・ナウ」の主人公達もそうだった。でも現実は何も変えられない。未来さえも描けないのだ。そんな時、自分たちを理解してくれる敵国の友人が出来た。はっきりとした目的はなくても、真っ暗闇に一筋の光が射したような気がしたと思うんだよね。片や、イスラエル人の子はその熱意を受け止められなかった。重いと感じたのだろう。だって彼らには間違いなく前途有望な未来が開けているのだから。そんな切実さなど到底共有できないし、理解もできないのだ。そのクールさが悲しいよね。でも僕ら日本人だってイスラエル人の子供と同じ立場ならどうかな?やっぱり大半はコンタクトしなくなるんじゃないかな?その切実さを自分の問題として考えられないと思うんだよね。だって僕らは何も奪われてないんだから・・・
監督は今でも子供達と連絡を取り合ってるそうだ。ぜひ大人になった彼らも追いかけて続編を作って欲しいという思いもあるけど、そのためにはもっと多くの人がこの作品を観ないといけないよね。ぜひ観て下さい。
ハーフマラソン結果報告
レース前夜。仕事で台湾にいる友人から電話があった。今、こっちに戻ってるという。せっかくなのでcocosで会った。彼はいつも僕のブログを読んでくれているという。文章も読みやすいと言ってくれて、とても有り難い言葉だった。いつも他の友人からは長過ぎるとお叱りを受けていたんで、書き続けるモチベーションが上がりました。ありがとうね。でもね。どうしてケーキなんか食べちゃったのかなあ。普段なら何てことないはずなんだけど、慎重になるべきだった。(無意識ながら緊張していたのかもしれない)
問題のcocosのケーキ
帰宅するとなんか胸焼けしてるんだよねえ。寝ちまえば治るかと思いきや、ずっとケーキが胸につかえたまま気になって眠れない。「ヤバい!」と思っていると、息が暖かくなってきた。ひょっとして「熱?」。おいおい、体調崩してる場合か?どうにか4時間寝て、目覚めてみたら事態は好転してなかった。
9時前、会場に到着。友達が付き合ってくれて、写真撮ってもらってます。感謝です。さっそく受付を済ませる。もう普通なら走らない状況。でも参加費3000円払ってあるから、取りあえず参加賞のTシャツでも貰わないとね。これがMIZUNOのしっかりとした生地のTシャツ。バリ島で売ってるようなバッタもんじゃなかったので満足。
Tシャツ ドライタイプの良品
微熱は気にならなかったんだけど、胸焼けが依然と残っている。でも足の状態は悪くなかったので走ってみる事にした。とりあえず完走目標に切り替えた。内心は1時間40分台を狙ってたんだけど、高望みはやめだ。
微妙に顔出し
さて、初めての経験なので勝手が分からない。参加者が4000人近くいるらしく、もの凄い人の列が出来ている。初のマラソンなので謙虚に一番後ろの方に並んだ。やがてみんながぞろぞろ歩き出した。どうやらレースがスタートしたらしい。スタートラインまで2分以上掛かった。おいおい、勘弁してくれよ。それでなくてもこっちはハンデ背負ってるというのに・・・次回はもっと前に並ばないとね。
走りながら感じた事は、高速のギヤが壊れた状況だなということ。スピードをアップすると吐き気がしてくる。スパートを掛けられない感じ。コンスタントに刻んでいくしかない。5キロを過ぎるともうキツくなってきた。いつもならここからピッチを上げていく状況。ピッチ走法ができないので、腕振りで無理矢理体を前に押し出す。足もいつもより使っている。中間地点にやってくると、タイムが表示されている。1:03:20
このままでは確実に2時間を切れない。状況を考えるとそれもやむなし。と一瞬思ったんだけど、やっぱりね。ギリギリまでやってみることにした。少しだけピッチを速くした。それでも他のランナーは僕をどんどん追い抜いていった。後半に余力を残しているのだろう。とても悔しかったけど、それより自分の体を持たす事に神経を集中した。15キロを過ぎると体が重くなってきた。でもいつもの持病、右膝の裏すじの痛みがまだ出ていない。このまま痛みよ出ないでくれ! 残り1キロになった。タイムを確認すると2時間まであと5分30秒。「間に合うかも!」。死ぬ気で走ったね。こんな辛い1キロは初めてよ。
ゴール前で太鼓の応援 やっと終わりだって感じになる。
もうアゴが上がった状況。間に合ってくれー!
ゴール!
さて、タイムは1:59:59。滑り込みセーフでした。2時間切れました。いやあ、辛い2時間だった。もう体中がパンパン。
もうリベンジモードに入ってますよ。残念だったけど、完走できたことは良かったし、ある意味自信ついたよ。あの状況であれだけ走れたのだ。体調管理さえしっかりやればそれなりに走れると確信した。
右膝の裏スジが痛くなってきた。この後食事したけど、あまり食欲は無くて体調がどんどん悪くなっていった。
車で行ったんだけど、駐車場出るまで1時間以上掛かってしまった。来年はもう車で来ないよ。
袋に入ってたので、使い忘れちゃったよ。
というわけで、今回は思いっきりプライベートなことを書いてしまった。すいませんでした。ただ今、寝込んでます。風邪治して温泉行きてえなあ。
ipod+nikeの誤差
久し振りにランニングのお話。というのも明日、初のハーフマラソン大会に出るからだ。でもかなりテンションは落ち気味。その原因はipod+nikeにある。というか僕のミスではあったんだけど・・・
ipod+nikeは、靴にセンサーを取り付け、ipodがその信号を受信することで距離やスピードを計測しているんだけど、久し振りにチェックしてみたら、かなりの距離の誤差が生じていたのだ。「いつの間に!」人はそれぞれ歩幅も違うし、個人差が必ず生じる。なのでその調整をする機能が付いている。400メートルを走って、更に同じ距離を歩く。そうすることである程度距離計測の精度が上がるのだ。当然、購入してすぐにその調整は済ませていた。そのままずっと使っていたら、いつのまにか狂っていたのだ。おそらく何かの間違いで初期化してしまったのだろう。ipodは370メートルしか走ってないのに400メートルを示していた。たった30メートルなんだけど、これってかなり大きな誤差だ。例えばハーフマラソンを20キロとしたら、30メートル×50倍で1.5キロの誤差になる。これって1キロ辺りの平均スピードが1分も遅くなってしまうのだ。
我ながら速くなったなあと思っていたんだよね。でも大きな間違いだった。4分半で走れると思っていたら、実際は5分半。「普通〜」というか大して進歩してねえって感じ?明日のハーフマラソンは1時間40分台が目標だったんだけど、2時間切るのも怪しくなってしまった。これにはガッカリよ。
前に書いたんだけど、ipod+nikeのホームページで企画したホノルルヴァーチャルマラソン。僕も参加したんだけど、約1500人走って256位だった。今思えば「ありえね〜」という順位。気付かなかったとはいえ、これはデタラメの記録でした。お恥ずかしい。
というわけで、2時間切りを目標に明日は頑張ります。ちょっと厳しいかな・・・
映画配給会社の見識眼と商品価値
「ワルツ・ウィズ・バシール」の日本公開が決まったそうだ。それは良かったんだけど、思えば僕らは配給会社によって世界中から選ばれた映画のみ鑑賞することができるんだよね。つまりいい映画を観れるか観れないかは配給会社の見識眼にかかっているわけだ。英語をネイティブに使えるならそんな制約を受ける事はない。どこの国で制作されたとしてもDVDに英語の字幕はほぼ入ってるからだ。観たい物があればアマゾンとか輸入版を扱ってるとこで買えばいいだけのことだ。
最近の傾向として、映画評論家の町山氏がネットやラジオで紹介する映画は、日本で公開未定の作品も多い。つまり日本の配給会社はその映画に商品価値を見いだせなかったということだ。でも彼の発言で事態は大きく変わる。僕も含め,彼のファンは多いのでネット上で観たいという声が当然上がる。公開希望のキャンペーンが繰り広げられたりする。しばらくすると日本公開が決まり、映画は大ヒットするのだ。これでは配給会社も形無しだ。実に格好わるい。世界を飛び回り映画を買い付けてる人達の見識眼が問われているのだ。「大丈夫?あんたたち」って感じ?
映画は観る動機が必要だ。わざわざ足を運ばせるからにはね、それはどんなことでもいい。好きな俳優が出てるから。SFXの技術が凄そうだから。ヒットしてるから。テレビでやたら宣伝してるから。ちょっとしたことでいい。個人とリンクするものさえあればいいんだけど、アメリカ以外の国で作られた地味な作品などは、余程の映画ファンでない限り、個人とリンクしにくいのが実情だと思う。
最近、僕は中東、特にイスラエル・パレスチナ関連の映画を漁るように見ている。それは「ガザ侵攻」について書いたブログを通して思いっきりリンクしてしまったからに他ならない。それがなければ、絶対に観る事のなかった映画ばかりだ。近い内、カタログ的に一気に紹介したいと思うけど、どの映画も興味深く観れたものばかりだ。ただ、あまりにもその数は少ない。当然といえばそうなんだけど、イスラエル・パレスチナ関連の映画はほとんど日本に入ってきてないのだ。例えばイスラエルの代表的な監督アモス・ギタイの作品は数十本ある内、数本だけだったりする。確かに彼の作品はエンターテインメント性は乏しく、抽象的な描写も多かったりするので観る人を選ぶ作品だと思う。でもイスラエルを知るには観るべき価値があるはずなのだ。まあ、これは僕の個人的願望に過ぎないよね。仕方ないとは思いつつ観れない事がとても残念だ。
中東関連の作品を観てると、配給会社がuplinkである作品が多い事に気付く。ぜひ頑張って欲しいものだ。この会社のお陰で多少は中東の知識が豊かになったと思う。映像はそれだけの力がある。感謝感謝。 外国の映画は、やはりその国の歴史的背景や文化など多少なりとも知っていないと面白さは半減してしまう。つまりお勉強の要素がどうしても入ってきてしまう。日本は知識欲が低下している傾向にあるから、これからますます外国の映画が入ってきにくい状況にあると思う。つまり商品価値が低下しているわけだ。町山氏のような見識眼の高い映画人と配給会社は連携しながら、ネット上などで盛り上げてその中からいい作品を日本に入れてほしいものだと切に願う。例えば配給会社がネット上で買い付け前の作品をプレゼンして、知識人や一般人の意見を取り入れていくとかね。こんなの素人の発想なのかねえ。とにかくどうしてこんなものを日本に持ってきたのか理解不能な作品が多いと思いません?でもそれは単に僕とリンクできてないだけのことかもしれないんだけどね。いやあ、難しい。
「ワルツ・ウィズ・バシール」を観る前の予習 レバノン戦争はめちゃ複雑な戦争
「ガザ侵攻」についてちょっと書くつもりが、いまだ終われない。結局,世界情勢なんて色んな事柄が連鎖してることだからね。それも仕方ないんだけど・・・先日、ラジオで町山氏が一本のイスラエル映画を紹介していた。タイトルは「ワルツ・ウィズ・バシール」。今年のアカデミー賞、外国映画賞にノミネートされていて(日本の映画「おくりびと」も一緒にノミネートされてる)、おそらく最優秀賞を獲るだろうと言われている。最近、「ガザ侵攻」のニュースもあって、とりわけ話題になっているそうだ。
この映画、1982年に起こったレバノン戦争を題材にしたドキュメンタリーで、何故か全編アニメーションだという。映像を見る限り、とても興味が湧いてきた。
あらすじ
1982年、19歳のアリ・フォルマンはイスラエル軍の兵士であった。2006年、彼は古い戦友に1982年のレバノン戦争で経験した事に基づく悪夢を見ると告げられるが、フォルマンは内戦の事を覚えていない。その晩、彼はサブラー・シャティーラーのキャンプ虐殺の晩の光景(記憶)を夢で見る。フォルマンはその記憶の中で、ベイルートの街の浜辺で、彼は戦友等と裸で水に浸っており、街の空いっぱいに照明弾が放たれているのを眺めている。一体これは何を意味するのか?フォルマンは戦争に関する記憶がない。どうして彼はそんな重要な出来事を忘れてしまったのか?彼は戦友等に会い、忘れてしまった記憶を取り戻そうとする。
ちょっと早過ぎるかもしれないけど、この映画を観る前の予習として、レバノン戦争とはなんだったのか書いてみようと思うんだけど、このレバノン戦争、実に複雑な話なんだよね。だからこの話題は今まで書かないでいた。でも中東にとって重要な出来事であり、多くの人命が失われた歴史的悲劇だった。。なるべく判りやすく、ざっくり書いてみる。
結局ね。パレチスナ難民の行く処災いありって話なんだよね。1948年ユダヤ人がパレスチナにイスラエルを建国したら、第一次中東戦争が起こって、イスラエルの勝利でパレスチナ人は難民になってしまった。
パレスチナ難民は行く場所ないから隣国、ヨルダン・レバノン・エジプトに入って難民キャンプを作っていったわけ。特にヨルダンは沢山の難民を受けいれてくれた。当然、ヨルダンもイスラエル憎しと思ってるから、彼らと一緒にイスラエルをやっつけようと考えていたんだね。でも状況は悪くなるばかり。業を煮やしたパレスチナ人は自らPLO(パレスチナ解放機構)を結成してゲリラ活動をするようになっていった。
第3次中東戦争でもイスラエルが再び圧倒的勝利を収めると、ヨルダンは方針を転換させ、イスラエルと和平交渉を始めるようになる。これに怒ったのがPLO。「裏切りやがったな!」ってことになって、今度はヨルダン転覆を謀るんだな。ヨルダンをパレスチナの国家にしようとしたわけ。メチャクチャだなあ。当然、ヨルダンの国王は激怒。「PLO、パレスチナ難民は全員ヨルダンから追放じゃ!」大きな内戦に突入しちゃった。ヨルダン内戦
PFLP(パレスチナ解放人民戦線)PLO内の一派 ヨルダン・フセイン国王
結局アメリカが仲介に入ったことで、この内戦は収まる。PLOはじめ、パレスチナ難民はヨルダンから追放され、その受け入れ先としてレバノンに移ることになる。これでヨルダンはアラブ全体から嫌われてしまったんだよね。同じアラブ人を国外に追放したこと、イスラエルといい関係になろうとしたこと。これは許しがたいことだったんだね。
ちなみにこの後、スピルバーグのミュンヘンの事件や、日本赤軍のテルアビブ空港爆破事件など、パレスチナゲリラによるテロ事件が頻発するのだ。
さて、問題のレバノンだ。この国はとっても複雑な宗教構成になってる。大雑把に書けばキリスト教徒とイスラム教徒が6:5の割合で混在していたわけ。まあ、微妙なバランスで成り立っていたんだね。金融や観光で経済的に豊かだったことが影響してたかもしれない。ベイルートなんて巨大観光地だったのだ。
ベイルート
このビデオ見たら行きたくなるなあ。この栄えた街が廃墟になる。
そこにパレスチナ人が入ってきたわけ。彼らってイスラム教徒だよね。その事が宗教のパワーバランスを崩す事態になってしまったのよ。その頃、レバノンで権力を握っていたのはキリスト教の最大派閥、マロン派といわれるグループだったんだけど、次第に数の増えたイスラム教徒から不満の声が上がるようになっていった。危機感を持ったマロン派は自分たちの利益を守るため民兵組織を作って対抗。初めは優勢だったのが、イスラム派組織にPLOが加勢するようになると、事態は逆転しながら大きな内戦に発展していった。レバノン内戦だ。
闘いとなったらPLOが一枚も二枚も上だよね。あっという間にマロン派の敗北は決定的となる。しかしPLOはあまりにも強過ぎた。(というかレバノンが戦争慣れしてなかった)レバノンの80%を征圧してしまったというから驚きだ。このままだとPLO主導の政権が誕生してしまう。これってマズいよね?だって数々のテロをやってきたパレスチナ人のPLOがレバノンを支配するんだよ。他の国が黙ってるはずがない。レバノン人だって我慢ならないよ。まず、ずっとPLOを支援していたはずのシリアがPLO征圧に動いたのだ。さすがのPLOも防戦一方。これまたあっという間に協定を結ぶこととなる。「レバノンを支配するなんて考えるな。南レバノンの一部を自由にしていいからさ。それで我慢しておけ」ってな感じでシリアの説得に応じるのだった。まあ、PLOとしては「解放区」を手に入れたことでよしとしないとね。
キャンプ・デービッド合意 アメリカの仲介でイスラエルとエジプトが和平を結ぶ。
そこでやっとイスラエルの登場だ。とはいっても、その間、エジプトと和平協定を結ぶなどしてPLOへの戦闘態勢を強化していたんだよね。地図を見てもらえれば判ると思うけど、エジプトと仲良くしておけば、後ろを気にせずレバノンに向けて一斉攻撃が可能になるでしょ?内戦の時も攻め込もうとしていたんだけど、アメリカから止められて動けなかった。南レバノンをPLOが支配することとなり、イスラエルは今こそPLOを殲滅するチャンスだと思った。
そして1982年 「ワルツ・ウィズ・バシール」の舞台となるレバノン戦争が幕を開ける。きっかけはイスラエルの駐米大使が何者かに襲撃されたからというものだったんだけど、おそらくでっちあげだろうね。PLO兵15000人に対し、イスラエル兵は50万人。それにPLO・シリアに敵対するレバノン軍も加わった。その軍の大将がバシール・ジェマイエル。映画のタイトルのバシールは彼の名前だ。
バシール・ジェマイエル
イスラエルはその開戦を「ガリラヤの和平作戦」と名付けた。(これもでっち上げ、ガリラヤ地方は別にPLOの被害を受けていなかった)イスラエルは圧倒的な力で南レバノンのパレスチナ・キャンプを瓦礫に変えていった。すべて焼き尽くした。大虐殺が始まったのだ。家を追われた南レバノンのパレスチナ難民は首都のベイルートに流入していった。もはや、ベイルートはパレスチナ難民の巣窟となっていったのだ。シリアも慌てて参戦し、イスラエルを攻撃したがその勢いは止められるはずもなく、逆に基地を破壊されてしまった。国連軍も入ってくるが何もできず、イスラエル軍は悠々とベイルートに向け、行進していった。ちなみにイスラエル兵の大半は何故、自分たちがベイルートに行くのかよく判ってなかったという。イスラエルは男女問わず徴兵制が敷かれていたので、こんなものかもしれない。(イラクで闘ったアメリカ兵も似たようなもんだった)
ここから起こる事は、悲惨極まりない。国際的非難を浴びながら、イスラエルは悪の限りを尽くしたのだ。映画で観るもよし、自分で調べてもらってもいい。あくまで映画を観る前の予習ということでここまでにしておこう。
この映画はまだ日本では上映未定だそうだ。アカデミー賞を獲ればやるだろうね。でも田舎じゃ無理か。DVDだけでも出てくれればそれでいいか・・・
映画の中のユダヤ人 2 プロパガンダ映画編
「アウシュビッツ・コンプレックス」という言葉があるのだそうだ。もちろんユダヤ人特有の強迫観念を指すんだけど、つまり「油断したら、またアウシュビッツのような悲劇に見舞われるかもしれない」という感覚が常にイスラエルのユダヤ人を支配しているということらしい。
第二次世界大戦以前、彼らはインテリで、商才に優れ、経済的に豊かだった。いわば勝者だったにも関わらず、ホロコーストのような悲劇にさらされてしまった。どうしてそんなことになったのか?答えは明白だ。彼らの持っていなかったもの。それが国家であり、軍事力なのだ。彼らの願いは一つになった。「今こそ、あの約束の地に我々の国家を建設しよう!」こうしてパレスチナへの脱出大作戦が始まった。
最初に紹介する映画は「栄光への脱出」。その脱出劇を感動的に描いた超大作で3時間半もあるのだ。主演は去年亡くなった若かりし頃のポール・ニューマン。ユダヤ人だとは知らなかった。ちょうど彼が人気が出始めた頃で、この後「ハスラー」や「スティング」で大人気俳優になっていくのだ。
史実を基に作られた物語なんだけど、かなりユダヤ人を美化した内容になっている。もちろんパレスチナ人は悪者。いいパレスチナ人も登場するんだけど、別のパレスチナ人(ナチスの残党が黒幕)に惨い殺され方をするんだよね。これはもうプロパガンダ映画と言っていいでしょう。
注 プロパガンダ映画(Propaganda film)は、政治的宣伝を目的とした映画の総称であり、観客に政治的な思想を植えつけることを目的とする
「栄光への脱出」1960年制作
あらすじ
1947年、パレスチナへ渡ろうとするユダヤ人たちでキプロス島の収容所は満杯だった。しかしアラブ人たちとの衝突を懸念する英軍が移送をためらううち、英軍将校にしてユダヤ人地下組織のリーダー、アリ・ベン・カナン(ポール・ニューマン)の下、ユダヤ人たちは「エクソダス」号船上でハンストに入る。英軍の将軍と知己の米人女性、キティ(エヴァ・マリー・セイント)は看護婦として船上で手伝ううち、自分たちの国を作りたいという彼らに共鳴していく。
第一次世界大戦中の1917年「バルフォア宣言」というイギリスの公式声明が発表された。その内容は、「パレスチナにおけるユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)の建設に賛意を示し、その支援を約束する」というもの。どうしてこのようなものが出たのか?当時、戦争で苦境に立っていたイギリスにはユダヤ人の大資本家。ロスチャイルド家が君臨していた。政治的にも、経済的にも発言力のあった彼らに媚を売ることで、ユダヤ人の派兵、経済援助を引き出そうとしたってことらしいんだよね。このことがユダヤ人のパレスチナ移住に結びついていくんだけど、イギリスはパレスチナ側にも国家承認の約束をしていたから話はややこしくなる。まあ、イギリスの二枚舌が招いた悲劇ともいえるのだ。
第二次世界大戦後、ユダヤ人が大量にパレスチナに流れていく状況に、イギリスは焦ったね。だってパレスチナ人は危機感を抱くよね?「約束が違うんじゃないの?」間違いなく争いに発展するのは目に見えている。だからイギリスはユダヤ人の入国を制限した。(イギリスの威信を世界に示す意味もあった)ユダヤ人も黙っちゃいないよ。「約束が違うんじゃないの?」イギリスは両者の板挟みになってしまったわけ。失策とはいえ、あの状況じゃ足止めするのも仕方ないかなと僕は思うんだけど、この映画では当然イギリス人は悪者。収容所にすし詰め状態で閉じ込められているユダヤ人を描くことで、イギリスの冷徹無慈悲ぶりを描いていくんだよね。
そこへ登場するのがポールニューマン演じるアリ・ベン・カナン。この英雄、どうも架空の人物らしい。彼はヒーローのごとく、持ち前の知恵と行動力でユダヤ人の大脱出を計るんだけど、イギリスは断固出航させない。ユダヤ人は命がけのハンストを行って、我慢較べになっていく。ここでユダヤ人の国家建設への強い想いが思い存分語られる。世界も彼らに同情し、観ている僕らも彼らに同調するように描かれていく。そして英国はとうとう根負けしてしまう。ユダヤ人のパレスチナ上陸が許可されたのだ。船上はお祭り騒ぎ。めでたしめでたし。
実際のエクソダス号 船上のユダヤ人
まあ、これはかなり綺麗ごと。別にイギリスは情にほだされたわけじゃない。実際はパレスチナに住むユダヤ人によるイギリスへのテロ行為が激化したことも背景にあるんだよね。その上、パレスチナ側もイギリスに対しテロをするもんだから、もう手に負えなくなっちゃったわけ。国連に丸投げしちゃったのだ。そうなったら、もう無法地帯。後はユダヤ人とパレスチナ人でやりあうしかない。
話はここで終わらない。ユダヤ人がパレスチナに上陸すると、「キブツ」と呼ばれる入植地に向かう。(集団農場と思ってもらっていい)既に入植していたユダヤ人達によって開拓された村なんだけど、実に健全そうな人ばかりで理想的な社会を築いているように見える。何やら気持ち悪い新興宗教団体みたいなんだよね。ここで新たな入植者は盛大な歓迎を受けるんだけど、そこに善人そうなパレスチナ人が何故かいるのだ。村長曰く「彼の父が善意で土地を譲ってくれたのだ」と・・・ほぼありえないでしょ?そんな綺麗ごとは流石に通用しないよ。実際は虐殺によって土地を奪ったのだ。それは酷かったらしいよ。ちゃんと記録にも残ってる。たくさんのパレスチナ人の村が破壊され、その残骸を今でも見れる場所があるのだそうだ。
農場を開墾するユダヤ人 キブツの住宅
やがて国連がパレスチナ分割を可決したことでユダヤ人の国イスラエル共和国が誕生することになった。喜びに沸き立つユダヤ人。でもそれは同時にユダヤ人とアラブ諸国の争いが本格化することを意味するよね。ここからは自由を守るために闘うユダヤ人と、それを邪魔するパレスチナって構図で展開されるのはお約束。パレスチナ人は可愛い少女は殺すわ、善良な同胞は殺すわ、残虐の限りを尽くす。片や、ユダヤ人は応戦するのみ。あくまで正義を貫き、平和を願うのだ。そしてヒーローは死んでいった仲間の墓の前で宣言する。「いつの日か、アラブ人とユダヤ人に死者同様の平和な日々を訪れさせると!」って虚しくなってくる台詞を吐いてこの映画は終わるんだよね。またまたあ、そんな気ないくせに〜。それともこの頃は本気でそうするつもりだったの?いやいや、それはない。でなきゃ、あんな酷いことをし続けるわけないと思うんだけど・・・
とまあ、ユダヤ人を善良な民族として描いたのでした。現実はむしろ逆だと思うけどね。ちなみに主人公と恋に落ちる女性はアメリカ人だ。初めは主人公の行動に疑問を持っていたのに、最後にはユダヤ人と一緒になって、銃を肩からかけた兵士の姿になっている。アメリカも仲間ってことなのかね?
他にも似たような映画は作られた。カーク・ダグラス主演の「巨大なる戦場」。彼もユダヤ系の俳優だ。この映画もユダヤ人を美化して描かれた作品。長くなるので紹介に留めておくね。
「巨大なる戦場」
あらすじ
実在の人物ミッキー・マーカスの伝記を下敷きに、第二次大戦後のパレスチナでアラブ諸国の圧力を受けるユダヤ人の独立運動を指揮する元米軍将校を描いた戦記ドラマ。
第2次世界大戦後のパレスチナ。イギリス軍の撤退をきっかけに、アラブ諸国はユダヤ人の排斥に動き出した。ユダヤ人はそんな圧力に対し、民族独立のため戦い始める。そして、今は退役してニューヨークに住んでいる元大佐マーカスへ、その独立戦争の指揮依頼が舞い込むのだった。戦時の手腕を買われた彼は、愛する妻を残し現地へ赴く。やがて、独立運動の組織作りに取り掛かる中、美しい女性マグダと出会うマーカスだが…。
こうして彼らは自分の国と軍隊を手に入れた。それでも彼らにはトラウマが根深く残っていた。冒頭に触れた「アウシュビッツ・コンプレックス」。どんなに軍備に力を入れても安心できない。だからパレスチナに対し、過剰な反応を起こしてしまう。何故、彼らがあんな小さな集団、ハマスをあれほど恐れるのか?それは明白だ。どんなに小さかろうと、もし核を手に入れたら危険度は限りなく高くなるからだ。だから物資の流れには異常な程、気を使っているはず。協力関係にあるイランや、アルカイダなどから核が渡らないように最善の努力をしているのだ。もし仮に核が渡ったら、ほぼ間違いなくハマスは躊躇なくテルアビブに核を落とすだろう。少なくともイスラエルはそう考えている。
昔ならプロパガンダ映画を作ったり、情報操作で世界を欺くことはできたかもしれない。でも今やインターネットの時代。そんな嘘は通用しないのだ。(テレビのニュースは相変わらずだったりするけど・・)イスラエルが今までと同じように残虐な行為を繰り返すならば世界の見る目は明らかに変わっていくだろう。可哀想な民族から極悪非道な民族へと・・・ 今回はこれまで。