「私は貝になりたい」を観に行く動機  戦争映画のテーマについて

最近の日本映画私は貝になりたいというタイトルを見て、どうも僕はピンと来ない。どうして今、「私は貝になりたい」なんだろう? なぜ制作者はリメイクしようと思ったんだろう?という思いが先にたつ。それはおそらく、僕らの現実とその物語が全くリンクできないからではないか?それを感じ取ることができないからピンとこないのかもしれない。もしかしたら、制作者なりに現代の人に伝えたいテーマがあるのだろうか?この作品を通して、現代に失われた大切な何かを喚起させたいのだろうか?

ミスチルの曲が盛り上げてるなあ

こっちは有名なオリジナル版のダイジェスト。これだけでも染み入る名台詞ではあります。これ生放送だったらしいですよ。知らなかった

一応ストーリーを書いておきます。観に行く予定の人は読まなくてもいいですよ。

ストーリー
第二次世界大戦中。高知県幡多郡清水で理髪店を営んでいた清水豊松(しみず とよまつ)は、気は弱いが平凡な人柄の人物であった。戦争が激化する中、豊松にも赤紙が届き、出征することになる。豊松は、新兵の訓練で上官に命令されて、アメリカ兵捕虜を銃剣で刺そうとするが、気後れして怪我を負わせただけにとどまる。終戦後、豊松は理髪店に戻って、いつも通りに仕事をこなしていた。そんなある日、捕虜虐待の罪により戦犯として特殊警察に逮捕される。極東国際軍事裁判条例に基づくC級裁判で、被告席に立った豊松は「日本の軍隊では、上官の命令に逆らえば命はないんだ」と主張するが、「拒否しなかったことは殺す意思があったという証拠だ」というアメリカ流の論理に跳ね返され、絞首刑判決が言い渡される。  -Wikipediaより-

さっそくオフィシャルサイトに行ってみた。 http://www.watashi-kai.jp/index.html
制作者がその辺のことを語っているかもしれない。いくつかの文章を読んで、これはキツいなあと思った。まず驚いたのは、この映画の脚本を書いたのは日本映画の大御所、90歳になった橋本忍氏であるということ。橋本氏は数々の名作を書いてきた。砂の器(原作を越えた名脚本だ)や、一連の黒沢明との共同脚本などが有名だ。そして、この作品は彼にとって3度目の脚本になるというのだ。「え?マジで?」今まで3度映像化されたものは全て、彼自身による脚本なのだ。彼によると、「今まで満足出来なかった部分が修正されて、更に良い脚本になった」と言っている。これが最終完全版なのだそうだ。普通ならば、期待するところなのかもしれないが、僕はファンの立場として、危うさを感じてしまう。その執念が映画にいい影響を与えるとは到底思えないのだ。それって、既に名作と評価されている絵画を更に上から色を塗り重ねていくことと同じなんじゃないの?またその絵が名作になるとは限らない。ただ彼の個人的な満足感を満たすだけになりかねないのだ。せめて僕は現代を生きている若い脚本家に書かせた方がまだ意義があると思う。現代の視点で、「私は貝になりたい」というドラマに別の光が注ぎ込まれるかもしれないからだ。失敗してもこっちの方がマシだ。
数年前、これまた大御所、市川崑が「犬神家の一族」を自ら再リメイクした。彼にはもう一度やる理由があったのだろう。やりたかったことが残されていたのだろう。でも僕には彼のマスターベーションを観に行く気にはなれなかった。彼は以前にも「ビルマの竪琴」を再リメイクした過去がある。思いのほかそのリメイク作はヒットした記憶がある。僕の視点が甘いのだろうが、両方観た限り、大した違いは見いだせなかった。明らかに違ったのは白黒とカラーの違いだったことくらいだ。「犬神家」は結局見てないが、どうだったのでしょう?面白くなっていたのですか?どちらもカラー作品です。市川崑が改めてやりたかったことってなんだったのでしょう?
話は戻る。脚本家は更にこう言っている。最初、この作品を書いたあと、黒沢明から「橋本よ、これじゃあ貝になれないんじゃないか?」と言われたそうだ。その言葉の真意は判らないが、彼はその言葉に長年悩まされ続け、ずっと書き直しをしていたのだという。そんな矢先、今回の脚本依頼が来たと言う。それはさぞかし、完璧な脚本なんだろう。
「前作に足りなかった部分。それまでは主人公の一人称で描いたので、悲劇性が線が細くて弱いと考え、三人称にして、家族やさまざまな人物に焦点を充てることによって、より悲劇性を浮きだたせるようにした」と書いている。 敢えて描かなかったんじゃないの?それやっちゃっていいんですか?普通のドラマになっちゃいません?見てないのでなんともいえないけど。でもその悲劇性の描き方に彼のこだわりやエネルギーが注がれていたというのはガッカリだ。つまり、戦争を知らない現代人に感情移入してもらうには何が必要かという問題に心を注いでもらいたかったのだ。制作者側は現代人に見てもらうために、内なる脚本にではなく、外堀を埋めていくのに神経を注いでいく。主題歌はミスチル、主演に紅白歌合戦の司会の中居くんと仲間くん。これは仕方ない事だと思うし、それを批判するのはやめておく。映画はまず、観に来てもらわないと始まらないのだ。どんな手で釣っても、いい映画なら客は満足するのだ。

ちらっと監督の描きたいテーマも書かれていた。
「日本、アメリカ、どっちが悪いとかではなく、戦争が悪いとしたかった。」
でました!またこれか。ほとんどの人が聞き飽きた言葉だな。また、性懲りもなく念を押したいのか?そりゃ、戦争はよくないよ。でも僕たち日本人にとって、戦争はテレビの画面で起こってる事。戦争自体にリアリティーを感じようがないのだ。いくら戦争はよくないと連呼されても、だから戦争なんてやってないじゃん!俺たちにどうしろよっていうの?って反応がよぎる。
「あれから50年、今もなお世界中で紛争は絶えていない。その最中、このドラマのような悲劇がもう起こっていない、そしてこれからも起こらないと言えるだろうか?そんな今だからこそ、語り継がれる作品として半世紀の時を経て銀幕によみがえる」だと。
とりあえず現時点では起こりようないし、憲法でも戦争はできないことになってるのだ。そんな現状で、ひたすら「戦争はよくない」って呪文のように唱えろってことなのか?もし戦争があるとすれば、他国から侵略戦争を仕掛けられる意外にないだろう。その時に、軍を持たない日本人はどうすべきかを考えておく必要はあるかもしれない。同じ日本人が外国人に殺されていく中、僕たちはどう振る舞えばいいのだろう?「戦争反対!」ってバカの一つ覚えみたいに殺されるまで叫び続けるのか?それとも愛する人のために戦うのか?それともただひたすらに逃げ惑うのか?答えはない。正解はない。どちらにしろ、僕らは選択しなければならないのだ。なんか革命闘士みたいな論調になっちゃいました。とにかくもうこのメッセージには飽き飽きなんです。勘弁してほしい。戦争なんかしたくないのはみんな一緒だよ。それでも起こってしまうのが戦争であり、個人ではコントロールできない事態なんじゃないの?

どうしてオリジナル版の方は大ヒットドラマとなり、後世に伝説として受け継がれてきたのだろうか?
僕なりに考えてみました。放送されたのは1958年、昭和33年 今からちょうど50年前になります。その頃の時代背景と関係があるのではないだろうか?
昭和33年はこんな年 http://www.geocities.jp/hasu58/sepia/s33/s33.htm
日本は高度経済成長時代の波に乗り、岩戸景気と呼ばれる好景気を迎えている。皇太子と美智子さんの結婚や、長嶋茂雄のデビューなど、華やかな話題もあって、戦争の暗い影など感じられない社会状況になりつつある時期だ。みんな浮かれていたような雰囲気ですね。そんな状況であのドラマです。主人公は最後にこう語ります。
今度生まれかわるなら人間にはなりたくありません。
牛や馬にも生まれません 人間にいじめられますから
どうしても生れかわらなければならないのなら、私は貝になりたいと思います。
貝ならば海の深い底の岩にヘバリついて何の心配もありません。
兵隊にとられることもない。戦争もない。
妻や子供を心配することもない。
どうしても生まれかわらなければならないのなら、私は貝に生まれるつもりです。

完全な人間への絶望宣言をするのです。上のダイジェストの動画でも見れますが、その台詞が流れてる間、理髪店を営む妻は生活のために、いつも通り談笑しながらお客の髪を刈っています。そこに悲壮感はありません。子供は近くで夢中になって絵本を読んでます。何事もなかったかのようにそこで話は終わるのです。これってちょっと怖くないですか?なんか胸騒ぎしませんか?その当時、これを見た人は一層強く感じたんじゃないだろうか?

当時、戦争が終わって、まだ13年しか経ってない頃です。人々は好景気に受かれ戦争なんて忘れかけている。その影で言われのない罪を着せられ、人間に絶望しながら死刑になった男がいたということ。これって冷や水を掛けられたような気分にならないだろうか?最後に映った家族は自分たちの姿だ。その当時、生きていた人たちも少なからず、戦争で大切な人を失っているかもしれない。全く同じじゃないか?あの妻を批難する資格など自分にはないじゃないか?
そして主人公はフランキー堺という、当時大人気だったコメディアンが演じています。いつもいい加減で、世間を笑い飛ばすようなキャラで売っていました。それってやっぱり浮かれている自分たちの姿そのものじゃないのか?あの死刑台にいたのは自分だったのかもしれないのだ。彼の起用にはそんな意味合いを込めていたのだと思います。
当時なら笑えないでしょ?心を揺さぶられて当然でしょ?だからこそ、あのドラマは語り草になったのだと思います。この幸せは戦争で亡くなった人達によってもたらされたものなんだという意識が芽生えたのではなかろうか?そんな風に思った訳です。

さて、今回の映画だ。僕らは戦争を知らない子供達だ。同じような追体験をするのは不可能だ。時代が違いすぎるのです。戦争の記憶は風化し、ただ「戦争反対!」という言葉だけが空虚に飛び交い、自衛隊について議論さえできない時代なのだ。予告編を観る限り、映画は全くテレビ版とは異なる雰囲気だ。久石譲の感情を揺さぶる音楽が全編に流れ、仲間由紀恵は深刻な顔で悲壮感たっぷりに演技している。
言われのない罪といえば、最近の映画ではそれでもボクはやってないという映画があった。電車で痴漢に間違えられた男の話だ。とてもストレートに怖い映画だった。この主人公は自分だったかもしれない。大半の男はそう感じると思う。女性も自分ではないにせよ、自分の愛する家族がもしそんな事態になったらと考えるように作られているので十分感情移入できるだろう。そうやって映画は僕らと繋がるのだ。そうか!いわれのない罪という点では「私は貝になりたい」でも十分、繋がる可能性はあるのかもしれないな。「それでもボクは〜」の後じゃ二番煎じに映りかねないけどね。

 
ストーリー
フリーターの金子徹平は、朝の通勤通学ラッシュに大混雑する電車で就職面接に向かう際、女子中学生に痴漢と間違えられてしまう。無実の罪を被って示談で済ませるという妥協を拒み、あくまで濡れ衣を晴らそうとした徹平は、逮捕され、更には起訴されることとなる。そして、徹平と彼の支援者達の長い戦いが始まる。
私は貝になりたい」と似ているぞ。というか時代が違うだけで同じ話と言っても言いすぎではないな。

映画は過去を舞台にしながらも、実は現代の社会状況を描くという手法がある。それなら映画に深みが増すと思うんだけど、制作者はやっぱり「戦争反対」って一番に叫びたいのかな?
この映画、実際観たらいいのかもしれませんね。脚本は最高傑作なんだろうし。でも僕は戦争反対と、すでに用意されてるメッセージに乗っかりに行こうと思えないなあ。

いくつか戦争映画をピックアップしてみたい。最近ではクリント・イーストウッドの二本の大作。
父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙

 
ストーリー
ウィスコンシン州で葬儀屋を営む老人が長い人生に別れを告げようとしていた。彼の名はジョン・“ドク”・ブラッドリー。1945年彼は海軍の衛生兵として硫黄島に赴き海兵隊と共に戦った。その中で撮られた一枚の写真により、彼はアメリカ中から“英雄”と称えられた。しかし彼はその後も、家族へ硫黄島について語ろうとはせずアメリカ中に知れ渡ったこの写真について何も語ろうとはしなかった。硫黄島で何があったのか、彼の息子・ジェイムズは硫黄島の真実について辿り始める。  -Wikipediaより-

 
ストーリー
1944年6月、戦局が悪化の一途を辿っていた太平洋戦争下の硫黄島に一人の将官が降り立つ。新たに硫黄島守備隊指揮官に任命された陸軍中将、栗林忠道渡辺謙)には駐在武官としてアメリカに滞在した経験があり、それ故に誰よりも米軍の強大な実力を知り尽くしていた。勝ち目の無い戦いと知りつつ、日本本土防衛のため、1日でも長く硫黄島を守る事に意味があると考えた彼は、反発する陸海軍の古参の側近や将校・士官達を押し切り、防衛計画を練り直す。今までの上官とは違い、合理的な思想を持つ栗林の存在は、日々の生活に絶望していた西郷(二宮和也)らに新たな希望を抱かせる。栗林は隷下の将兵に無意味な万歳突撃や自決を禁じ、硫黄島地下に坑道をめぐらせ要塞化し、死よりも苛酷な持久戦に持ち込むが…   -Wikipediaより-

第二次世界大戦 日米の硫黄島の戦いをそれぞれの立場から公平に描いた意欲作だと思う。これは対になる作品だ。両方観てイーストウッドの描きたいテーマが完結する
正直、アメリカには日本とは異なり戦争を語る理由がある。それは常に戦争が現実だからだ。当然この二つの映画は過去を描きながらも、現実を投影させているのだ。イーストウッドは今のイラク戦争を痛烈に批判している人だ。そんな彼が映画にメッセージを込めないわけがない。
この作品の意義は、日本人を野蛮な存在として描くわけでなく、血の通った人間としてきちんと描いている点にある。まさに戦争は正義と悪の戦いではないと訴えているのだ。でも、それは「私は貝になりたい」においても意識しているだろう。何が違うのか?アメリカ人は今、現在、イラク人に対して、同じ過ちを繰り返してるのだという現実がそこにある。捕虜を虐待している映像がyoutubeに流れたり、人と人として扱わない蛮行が今も米兵によって繰り広げられているのだ。そして、彼ら自身も戦争で死んでいっているというリアルな現実がある。彼は描かずにおれなかったのだ。こんな無意味な戦争はやめるべきだと。
父親たちの星条旗では、英雄となって帰ってきた主人公達が決して幸せな人生を送っていないことも描いていく。現在、アメリカでは兵士の大半が現状打破したい貧困層の若者達だという。給料を貰える上に、将来も心配ないと思い込んでるのだ。中には犯罪者ギリギリの連中も少なくない。志願兵になれば、罪を恩赦されるからだ。イーストウッドは彼らにも、戦争なんか行くな。ろくな事はないぞとも言ってるのかもしれない。

次にオリヴァーストーン監督のプラトーンだ。


ストーリー
1967年のベトナム。クリス・テイラーは自分と同年代の、しかも少数民族貧困層の若者が次々と徴兵される現実に憤りを覚え、大学を中退してまでベトナムにやってきた。しかし戦場の過酷さは彼の想像を遥かに超えるものであり、現地に配属された当日に自分の決断を後悔する。テイラーはカンボジア国境付近のアメリカ陸軍第25歩兵師団に配属された。行軍中のある日、小隊はベトコンとの関与が強く疑われる、小さな村落を発見した。冷酷非情なボブ・バーンズ軍曹は、尋問に非協力的な村民を射殺したため、正義感の強いエライアス・グロージョン軍曹はバーンズの不軍規行為に怒り彼に殴りかかった。バーンズとエライアスの対立は決定的となり、それを引き金に小隊全体に不協和音が生じたものの、人員不足のために中隊長のハリス大尉は対応をとることができない。翌日には敵の待ち伏せに遭い、さらに小隊長のウォルフ中尉が誤った座標を伝えたために、味方の砲兵に誤爆され、小隊は損害を受ける。バーンズはウォルフ中尉に撤退を提言し、自身は側面の防御配置に就いたエライアスたちを連れ戻しに行く。バーンズは途轍もない行動をとる。

反戦映画という言葉がある。アメリカがベトナム戦争で大きな痛手を受けて以来、ほとんどの戦争映画は反戦的な色を帯びるようになっていった。それまで戦争映画は「戦場にかける橋」ナバロンの要塞など、戦争で活躍した英雄達を描いたヒーロー物だった。観客はアメリカ兵がドイツ兵をやっつけるのを観て歓喜していたのだ。それがベトナム戦争を界に一変した。やがて映画界は戦争ヒーロー物を自粛するようになり、新たなヒーロー像を作り上げていった。それがスタローン、シュワルツネッガーなどの筋肉スターを生み出した背景になっているのかもしれない。
映画人は、戦争を面白可笑しく描くことはやめて、リアルな現実を描いていく事に血を注いでいった。いくつかの名作が生まれた。地獄の黙示録は戦争の狂気を描き、「ディアハンター」は戦争で心に傷を負った若者達を描き、プライベートライアンはリアルに戦場を再現する事で、観客に戦争の恐ろしさを追体験させた。そしてプラトーンは戦争の理想と現実をありのままに描いた最初の作品となったのだという。映画評論家の町山氏によると、監督のオリヴァーストーンはベトナム戦争の帰還兵であり、(動画の最初に出てくる兵士達の写真、真ん中で立っているのがストーンです)その体験を全てぶちまけるように描いた作品こそプラトーンだという。これほどリアルな戦争映画はない。だって出てくる登場人物は全て実在していた兵士なのだから。彼は実際に目の当たりにしたものを忠実に再現しようとしただけで、この映画の中で戦争の是非を問うてはいない。メッセージも込めてはいない。戦場というのはこうなんですよ。と僕らに提示したに過ぎないという。
ここに出てくる兵士達のほとんどは、黒人やインディアンなどのマイノリティー層だ。彼らは戦争に行って、初めて国民として認められ、人として扱われたという。ストーンみたいなインテリが戦争に行く事自体、珍しいことだったのだ。ベトナム戦争の頃から、それは今も変わってない。お金持ちは戦争には行かない。弱者に銃を持たせておいて、指示するだけの構造が成り立っているのだ。
戦争を真摯に描けば、自ずと反戦映画になる。反戦は前提であり、「戦争反対」なんてわざわざ掲げなくても、観客は戦争を肯定などしないだろう。映画人はその先にあるものを描いてほしいと思うのは、期待しすぎなのかなあ?
僕は戦争映画マニアではありませんが、今回紹介したものの他にも、戦争映画の傑作は沢山あります。また、おいおい書きたいと思います。
それでは最後に、一つ紹介して終わります。「トロピックサンダー史上最低の作戦」この映画のテーマ・・・そんなのどうでもいい。ただ大笑いする映画です。そういう映画もあっていいのだ。でもデートムービーには向きません。描写がかなりエグイ。それに映画に詳しい人が観ると、かなりニヤリとするところがある。この映画はアメリカ映画界への皮肉を描きながら、地獄の黙示録のメイキング映画「ハート・オブ・ダークネス」(監督コッポラのメチャクチャぶりが観れます)のパロディーにもなっている。ついでにプラトーンのパロディもあります。例の有名シーンね。普通の観客も、コアな映画ファンも両方楽しめる映画になってるのだ。アメリカでは大ヒット。日本ではどうでしょうか。

 
ストーリー
ベトナム戦争を題材にした映画を撮影していた製作スタッフは、わがままな俳優達のせいで、撮影5日で予算がなくなってしまう。このままでは撮影中止の危機になるため、監督は東南アジアのジャングルで撮影を再開させるが、そこは本物の戦場だった・・・