殺す理由を与えないために ハマスと日本赤軍

そんなにパレスチナ問題は詳しくないのに、こうやって書き続けてると我ながら「何様?」という気になってくる。気軽に始めたブログも慣れないことに手を染めると、関連の本読んだり、映画を観ているうちに更新がままならなくなる。それはそれで楽しいんだけど、何やってんだろうねえ。
前回、紹介した映画「パラダイス・ナウ」という映画の中で「殺す理由を与えてはいけない」という台詞がある。ガザの現状を見ると僕にはこの言葉が頭をよぎってしまうんだな。イスラエルは停戦に持ち込もうとしてるのにも関わらず、ハマスはそれでもロケット弾を撃ってくるという。僕の感覚ではいつまで相手に殺す理由を与え続けるつもりなんだ?が先に立って、イスラエルというよりもハマス自身がガザ市民を危険にさらしているのだと思えてならない。もはやガザ市民が彼らを暴走させてはいけないんじゃないの?
原理主義=過激派はタチが悪い。何故なら彼らは「妥協」を許さないからだ。つまり話し合いでは解決する気がないんだからどうしようもない。「話し合い」は妥協点を探ることに他ならないからね。妥協=敗北なのだ。アメリカのオバマ大統領就任に合わせるように、停戦となる運びになったようだけど、どちらも勝ったと言ってるらしい。まあイスラエルは当然として、ハマスお前も言うか!って感じ。こいつらは懲りてないよ。どうせ体力が回復したらまた小競り合いが続いていくことになるんだろうね。
なんて事考えてたら、ふと一人の日本人女性が頭をよぎった。懲りない女。かつての過激派「日本赤軍」の最高幹部・重信房子だ。彼女はパレスチナの過激派に手を貸していた重大犯罪人、自らも数々のテロに関わっていた殺人者なのだ。彼女が数十年ぶりに日本に移送された際、しきりに笑顔で拳を突き上げていたのをテレビで見て、「わー、全然懲りてないんだな」と暗澹たる気持ちになったよ。まあ、自らを正当化できる場所にいたのだからしょうがないけどね。
げー、美人だ!  日本に戻った時
60年代に起こった全共闘運動。大学の授業料値上げに端を発する大学紛争なんだけど、やがて革命闘争に発展していったんだよね。詳細は書かずにざっくりいくよ。当時の学生達はまず二手に分かれるる。闘争する者とそうでない者。闘争に参加しない者はノンポリ(non policy)と呼ばれ軽蔑される存在になった。闘争が進むにつれ、その方針を巡ってまた二手に分かれていく。妥協しない者とそうでない者。闘争する過程で必ずこういう論理が顔を出すのだ。妥協=敗北。敗北者のレッテルを貼られた途端、そのグループは求心力を失っていくしかない。何を言っても「詭弁」とかいって罵られるだけ。こんな風に枝分かれして、内部分裂を起こしていったもんだから学生運動そのものが沈静化の一途を辿っていったんだよね。でも取り残されてしまった妥協しない者たちはどんどんエスカレートしていくしかないのだ。(だって止めてしまうのも敗北だからね。終わりはないのよ.)
 安田講堂
最初は大学が相手だったはずなのに、事は大きくなって国家が敵になり、次は世界全体を敵に回すのかと思いきや、実際は自分の内面の弱さとの闘いになっていくという皮肉。だって妥協=敗北だからね。もう甘いこと言えなくなっちゃう。臆病者呼ばわりされたくなくて、心にもない事を口走ってしまう。過激であればあるほど勇敢ってことになるから、集団はそちらに傾いていくしかないよね。もはや現実の自分と乖離したモンスターになっていくのだ。そんな連中が集まって組まれたのが連合赤軍よ。大雑把すぎる?この時点で彼らは社会から完全に見放されている。(ハマスとはここが決定的に違う)まるで追い立てられるように彼らは山に籠り、「総括」という言葉のもと、自らの政治的反省や、仲間の告発を通して更なる純化をはかっていったわけ。その揚げ句の果てに浅間山荘に立て篭ったり、パレスチナに行ってテロ行為に手を染めたり、よど号ハイジャック事件を起こして北朝鮮に行くなど、結局、空中分解してしまった。当然の帰結とはいえ、もうめちゃくちゃよ。
浅間山荘  パレスチナのテロ行為に日本人が関わっていた
高度経済成長で、豊かになった以上、日本人は彼らを必要としてはいなかった。むしろ外国に行ってくれてせいせいしているわけ。彼らは自分を必要としてくれる場所を探して放浪することになったのだ。パレスチナに行った重信達は自らを日本赤軍と名乗った。そして数々のテロを起こし、世界にその名を轟かせた。そして彼らの純化された妥協しない精神は、ハマスイスラム過激派に受け継がれていったんじゃないの?

本来、人は環境に順応させて生きていくもの。寒いところにいれば、そこで生き残るための体になっていくし、知恵も備わっていく。もしそこがイヤなら暖かい土地に移り住むしかない。彼らは順応することよりも、イデオロギーに縛られるあまりに、今いる世界を変えようとしたんだよね。でも世界を変えるにはそれを望む人が多くないと成立しない。そっぽ向かれて失敗に終わった。これってオーム真理教もやったこと。うまくいくはずもない。だって日本って悪いところもいっぱいあるけど、そこそこいい国なんだから。それがイヤなら自分の居心地のいい場所に移り住んてもらうしかないよ。重信房子が何を言おうと、僕は彼女が単なる自己実現のためにテロで多くの命を奪ったとしか思えない。帝国主義の打倒?ふざけるなって感じ。
パレスチナのほとんどの人は何とか環境に順応させて生きていこうとしている。もちろんイスラエルに対しては憎しみを持っているんだけど、それを振りかざしてもどうにもならないことを、特に女性達は判っている。一本の映画を観た。「ガーダ パレスチナの詩」。この映画は戦火の中を逞しく生きるガザ地区の女性達を描いたドキュメンタリーで、日本人の女性が単身乗り込んで作った作品だ。まあ、あくまでドキュメントなので観る人を選ぶと思うんだけど、ガザがどんなところなのかよく判るので、それだけでも観る価値はあるかな。 
「ガーダ パレスチナの詩」

今から5〜6年前のガザが描かれてるんだけど、もう既に街は廃墟だらけなんだよね。ハマスという言葉が出てこないので、ずっと以前から市民レベルの抵抗が続いていたって事になる。ただね。この映画を観る限り、市民の抵抗はまるで学生運動のレベルを超えてないんだな。小さな子供から大人まで石を集めてきて、戦車や装甲車にひたすらぶつけるだけ。貧しくて鬱屈した感情を吐き出しているのは判るんだけど、これでは相手に「殺す理由」を与えるだけ。実際、イスラエルは石に対し、発砲してくるのだから被害が大きいのはガザの方。
 イスラエルの戦車に向けて石を投げる少年
ハマスが生まれたのは必然だよね。彼らが他のイスラム過激派やイランから支援を受けて、石の代わりにロケット弾を持ち込んでくれたのだ。市民からすれば彼らはヒーローに映るかもしれない。でも石がロケット弾になったからといって、なんだっての?事態は良くなるどころか、悪くなるだけ。その結果が今回のガザ侵攻じゃないの?
映画の中で少年が撃たれて死ぬシーンがある。親戚は当然,イスラエルに対し怒りをぶつける。「この子は後ろから撃たれてるのよ!ということは逃げていたということ。そんな子に発砲するなんて人のやることじゃない。」残念ながら、無謀な戦いに身を置けば、そのような事態は避けられないよ。そして殺されるのは弱い立場の人間ばかりだ。
この映画のタイトル「ガーダ」とは主人公の女性の名前だ。彼女の人生を通して、パレスチナが見えてくる構成になっている。とにかくバカなのは男どもで、女は偉大だなと痛感させられる。女は石なんて投げないしね。少なくともイスラエルに「殺す理由」は与えてはいない。不満はあっても、みんなで楽しく詩を歌うんだよね。貧しい中でも大らかに生きようとしている。一方、男はバカの一つ覚えのように「占領は死も同然」と叫ぶだけ。どっちが利口よ。ガーダは親戚の子供の死をきっかけに、自分なりの闘いを始める。ガザの女性達の歴史を本にしようと思い立ったのだ。石を投げるより、ペンの方が効力あるでしょ?
もし日本が豊かになることはなく、政治が腐敗し、貧困にあえいでいたら、「連合赤軍」は英雄になっていたのだろうか?彼らの国家へのテロ行為に胸をスカッとしていたのだろうか?そう考えると、パレスチナがこのまま貧しければ、この争いは永遠に続くしかない。もし止められるとすればパレスチナ自身が変わらなければならないのが現状だと思う。理不尽だけどね。イスラエルに「殺す理由」を与えない国家になるしかない。そして経済的な豊かさを追求して生活の水準を上げていくしかない。そうすれば、仮にイスラエルから酷い目にあっても、世界は放っておくわけにいかなくなる。国際社会に訴えることもできる。つまりイスラエルを非難する理由」を世界各国に与えてあげないと事態は進展しないと思う。イスラム過激派のハマスが実権を握っている限り、世界はむやみに援助なんてできないし、イスラエルに対し強い事は言わないからね。もうそれしか道はないと思うんだけど・・・それこそ幻想なのかな?