「イスラエルのガザ侵攻」ってどういうこと? その4 「パラダイス・ナウ」からパレスチナを知る

テレビを観ていたら、新成人にインタビューをしていた。「日本で最後にあった戦争はいつですか?」 正確に答えられたのはたった18%。ちょっと驚いてしまった。これが現状なの?更にその珍回答ぶりには驚きを通り越して呆れてしまった。(もちろん、面白いのをピックアップしてるんだろうけど・・)戦争があった事さえ知らない子。昭和に戦争はなかったという子。学校で習わなかったと言う子。恥ずかしさなど微塵もなく笑い転げている。うーん、知らなくたってそんなには困らない。でも、明らかに知性や教養を意識的に拒否してるとしか思えないよね。僕も勉強は出来る方じゃなかったけど、「終戦日」なんて常識の範囲だと思っていたよ。『いい国(1192年)つくろう鎌倉幕府みたいに、憶えたって意識もないんだよなあ。なるほど。僕は以前、ブログで映画「私は貝になりたくない」なんて今更リメイクされても・・なんて事書いたけど撤回します。こうなったらどんどんジャニーズで反戦映画作ってください。イケメンで戦争ドラマ作ってください。学校では戦国時代なんかより、近代史を教えて下さい。(もっとも、終戦日を習わなかった子が戦国時代なら詳しいってことはまずないと思うけど・・)
前回、イスラエル寄りの内容で書いたので、今回、パレスチナ人寄りで書こうと思うんだけど、なんかあの番組見た後じゃ脱力感をぬぐえないなあ。
パレスチナ人はどうして勝ち目のない抵抗を続けるのだろうか?日本は敗戦後、安保闘争はあったけど基本的にアメリカの言いなりになって、やがて経済大国になっていったよね。そういう道もあったはず。何故そうならないか?それはある一本の映画を観てもらえればある程度理解できると思う。パレスチナの現状、パレスチナ人の心情。そして自爆テロ実行者の意識をある程度描いているからだ。僕がとやかく書くより観てもらったほうが早いんだけど、ガイドと感想を交えてここは書いてみようと思う。映画のタイトルはパラダイス・ナウ公開当時は評判にもなったし、アカデミー賞の外国映画部門にもノミネートされていた。

パラダイス・ナウ
 
パレスチナ人監督とイスラエル人プロデューサーが手を組み、ゴールデングローブ賞受賞を果たした話題作。自爆攻撃者に選ばれたふたりの幼馴染みが、葛藤しながらテロ決行に至るまでの48時間を描く。

この映画の舞台はガザ地区ではないんだよね。同じパレスチナ自治区のナブルスという街。西岸地区ではもっとも大きな街らしい。この荒廃ぶりを見ると、他の街も似たり寄ったりなのかもしれない。
  ナブルスの街
自治区とはいっても事実上、イスラエルの占領下にあることが映画を観ればよく判る。至る所にイスラエル兵による検問所があって、パレスチナ人は街間の往来を自由に出来ない。夜にもなれば道路は封鎖されてしまうので、街全体が牢獄と化してしまう。
パレスチナ人が常に行列を作っている。
そんな環境の下、ほとんどの若者はちゃんとした仕事もなく、未来など描けないまま夢も希望もない毎日を送っている。貧困が街を覆い尽くす中、年寄りならそんな現状を耐え忍ぶことができるかもしれない。でも血気盛んな若者にとってそれは堪え難い苦しみであり屈辱に違いない。何故なら人はどんな苦しい環境にあっても、希望さえあれば生きていけるから・・・それさえも奪われてしまったら行き場などない。彼らにとって「占領は死も同然」なのだ。
この映画の主人公、サイードとハーレドはイスラム教徒だが、決して狂信的には見えない。むしろごく普通の若者に映る。そんな彼らが次の自爆テロ実行者に選ばれるんだけど、彼らは平然とその事を受け入れる。長い間、自分の出番を待っていたんだね。もはや彼らに人生の選択肢は少ない。このまま屈辱の中で生きていくか?自爆テロで死んで英雄になるか?二つしか選択肢が用意されていないのだ。若者なら後者に流れていくのもうなづける。選ばれるだけでも嬉しいのに、死んだ後は組織が家族の面倒を見てくれ、街中に自分の顔が刷られたポスターが殉教者として貼られるのだ。そして魂は天国に導かれる。こんな名誉なことはないのだ。少なくとも彼らにとってはね。「世界を君たちが変えるんだ」
街中に貼られた殉教者のポスター
その翌日 地下活動グループの司令部にやってきた二人は最後の準備を行う。典型的なイスラエル人に化けるため、ひげを剃り、髪は短く切られ、パリッとしたスーツを着る。ポスター用の写真、ビデオメッセージを撮影した後、みんなで最後の晩餐をとる。横一列に並ぶその様は、まるでダヴィンチの絵さながらだ。これらの儀式を通して、二人は殉教者に生まれかわるのだ。
 
普通ならこのまま二人は自爆テロを決行するのだろうが、当然、映画はそれで終わらない。そんな価値観を揺さぶる存在が現れる。スーハという若い美貌の女性──上流家庭に生まれ、フランスで育ったパレスチナ人──が二人と関わることで新たな葛藤が生まれるのだ。彼女は言わば、近代社会においてスタンダードな考えの持ち主であり、代弁者だ。僕ら日本人にも理解しやすいものじゃないかな?

「教えて 何故こんなことを?」
「平等に生きられなくとも、平等には死ねる」
「平等のために死んだり、人を殺す事のではなく、平等のために生きる努力をすべきじゃないの?」
「あんたの言う人権でか?」
「それも一つの可能性よ。とにかくイスラエルに殺す理由を与えてはならないのよ。」
「無邪気なもんだな。自由は闘って手に入れるものだ。不正がある限り自分を犠牲にするものは必要だ」
「犠牲なんかじゃない。ただの復讐よ ただの人殺し・・」
「やつらは飛行機で空爆してくるが、俺たちには何もない。自爆して対抗するしか方法はないんだ。」
「それは見当違いよ。武力でイスラエルに対抗しても勝ち目ないのよ。」
「いや、死だけは常に平等だ。俺たちは天国に行けるんだ。」
「いい加減にして!天国なんて想像上のものよ」
「地獄で生き続けていくよりも、想像上の天国の方がマシだ。」

イスラム教徒の会話とは思えないよね。最後に「想像上の天国のほうがマシだ」は彼らにとって神はそれほど大きな存在ではないことを物語っている。ただ、神の存在に疑いを持っているとしても、それにすがりつくしかない過酷な現実が哀しいのだ。疑念を振り払いながらも想像上の天国を夢見て、彼らはどうにか死ねるのかもしれない。
タイトルのパラダイス・ナウの意味を監督はこう言っている。パラダイスは来世、ナウは今を意味している。本来並列出来ない言葉だけど、自爆テロを実行した瞬間、その人は今と来世を同時に体験することになるということらしい。なるほど。僕は英語は得意ではないので、「今が天国」?どういう意味だ?なんて考えてしまった。
 テルアヴィブの外観
主人公の目的地はテルアヴィブ。イスラエルの首都であり、もっとも近代的に発展した街だ。ビーチが広がり、楽しげな水着姿の観光客が主人公達の目に飛び込む。彼らにどう映ったのだろう。まるで天国のように感じただろうか?このような格差がある限り、パレスチナ人の自爆の連鎖は止まらないだろう。復讐は復讐を生むだけ。それでもやり続けるしかない彼らの状況。このあとストーリーがどうなるかは書かないでおく。ぜひ観てください。今回はこれまで。