映画の中のユダヤ人 1 スピルバーグ編
イスラエルはパレスチナ人に対し、人権無視の非道な行為を数多くやってきた。今回のガザ侵攻で1300人以上亡くなったとされているけど、以前には数万人単位の虐殺があったという事実も残っている。そんなこと日本人は殆ど知らないと思う。憶えてないといった方が正確かもしれない。マスコミはほとんど無視を決め込んでるし、取り上げたとしても大きな問題にはしなかった。
僕らがユダヤ人に最初に抱くイメージは、ホロコーストで大量虐殺された可哀想な民族といった感じか?そんな酷い目にあった被害者が、虐殺の加害者になってることと結びつかないんだよね。世界も同様の立場。ヨーロッパはずっと差別してきた贖罪の意識もあって、イスラエルに対し強い事は言わないし、アメリカともなれば、政治・金融・メディアをユダヤ人に支配されてるので当然何も言わないし、言えない。イスラエルはそんな状況を巧みに利用しながら、やりたい放題できたのかもしれない。
アンネの日記は僕らが子供の頃に学校で習った記憶がある。
ユダヤ人は知性があり、商才に長けた民族とよく言われる。でも、それは彼らが流民として生きていく上で必要不可欠な武器として認識していたからに他ならない。外国に行けば、(差別されるので)普通の職には就けないので、誰もやらない・やりたがらない仕事を自らの知恵で開拓していったのだ。それが金貸しだったり、弁護士だったり、映画産業だったり、金のなる木を育てていったんだよね。外国の連中がそれに気付いた時には既に遅し。彼らの牛耳っている世界で、身の置き場がないわけ。そりゃ、嫉妬の嵐が渦巻くよね。当然、差別が激化し、排斥運動が起こるのだ。
さてハリウッドの映画産業を作り上げたもユダヤ人の移民だった。映画という新しい娯楽ビジネスに注目したんだね。現在も、監督、俳優、ミュージシャン・・・と60%以上がユダヤ人というんだから驚きだ。その中でも有名なのはスティーブン・スピルバーグが筆頭だろう。数々の娯楽エンターテインメント作品を作ってきたんだけど、異色の作品もいくつかある。ユダヤ人を扱った映画だ。彼はお金も地位も手に入れていたが、名誉だけは手にしていなかった。彼は無冠の帝王と呼ばれていたのだ。だからアカデミー賞が欲しかった。そして作った映画が「シンドラーのリスト」 審査員はユダヤ人が多い事で有名。実際、歴代の受賞作にはユダヤ人関連のものが多かった。彼は念願叶ってこの作品でアカデミー監督賞・作品賞のダブル受賞を成し遂げたのだ。
この映画は観た人も多いと思う。第二次世界大戦時のナチス・ドイツによるユダヤ人の虐殺の中、企業家でナチス党員でもあるオスカー・シンドラーが1,100人以上ものユダヤ人の命を救った実話を描いた作品。とことんグロテスクに描いてることもあって、この映画を観て世界中の人がユダヤ人に対して気の毒な感情を持っただろう。二度観たくなる映画ではないけど、鮮烈な印象が残ってしまうのだ。そしてホロコーストを扱った映画は僕らが忘れそうになる頃に、定期的に作られていった。それがユダヤ人の策略によるものなのか、深読み過ぎるのかもしれないけど効果は発揮されていると思う。
この中では「ライフ・イズ・ビューティフル」が一番好きだけど、これってイタリア映画なんだよね。でもイタリア系・ユダヤ人が作ってるよ。それに全作品、何らかのアカデミー賞を受賞しているのだ。
もう一本、ユダヤ人を扱った映画「ミュンヘン」だ。1972年のミュンヘンオリンピック事件後のイスラエル諜報特務局による黒い九月に対する報復を描いた作品なんだけど、この内容は賛否両論を呼んだ。
「ミュンヘン」
あらすじ
1972年9月5日、ミュンヘン・オリンピック開催中に、パレスチナゲリラ“黒い九月”によるイスラエル選手団襲撃事件が起こる。人質となった選手11名は全員死亡。これに激怒したイスラエル機密情報機関“モサド”は、秘密裏に暗殺チームを編成、首謀者11名の殺害を企てる。リーダーに任命されたアフナーは、仲間4人とともに殺害を実行していくが、次第に自分たちの任務に疑問を感じ始めていく。
僕はこの映画をとても評価してるんだけど、当事者のイスラエル人・パレスチナ人の双方にとって、この映画は噴飯ものだったらしいんだよね。言うなれば彼自身のパランス感覚がそれを招いたのだ。イスラエル側から描きながらも、完全擁護するわけでもなく、パレスチナ人も決して悪者として描いてない。同じ人間として描こうとするスピルバーグの姿勢がいかんなく発揮された傑作なのに、それが彼らにとって中途半端に映ったに違いない。両者の不満とは何か?少し内容に触れてみよう。
実際の映像
そもそも発端となったこの事件。パレスチナゲリラが選手を全員死亡させたというのは事実と異なり、実際は西ドイツの狙撃犯によるものだったらしい。しかも人質もろともパレスチナ人の誘拐犯を狙撃することはイスラエル政府の合意の上だったというから驚きだ。ってことは、その後の暗殺計画は全く根拠のないもの。イスラエルの自作自演てことになるよね。実際,イスラエルはそれに乗じて、パレスチナに空爆も行ったらしいから、パレスチナからすれば許しがたいこと。スピルバーグがそれを描かなかったことで、パレスチナ人は当然頭に来たわけ。
これってイスラエルのいつものやり方らしいんだよね。でっちあげでも何でも相手に反撃する理由を作ってから攻撃を開始する。今回のガザ侵攻も、「ハマスがミサイル攻撃をしてくるから」という理由があったでしょ?そう考えると本当にミサイル攻撃があったのか疑わしくなるね。ついでに言うとアメリカも同じ。真珠湾攻撃、9.11テロどちらも相手にやらせて戦争をおっ始める。イスラエルはアメリカのマネをしてるってことかな。
映画に出てくるパレスチナ人は一人として悪党は出てこない。知的で、家族想いの普通の人として描いている。かたや、主人公ら暗殺チームは自分たちの任務に疑問を持ち始め、自らの任務が結局はテロと変わらないのではないか、というところまで悩むわけだ。スピルバーグは同じ人間として描くことで配慮してるつもりなんだけど、パレスチナ人はこの描き方には納得いかない。ユダヤ人の苦悩を描いてるのに、パレスチナ人のそれを描いてないから十分じゃないというわけだ。ユダヤ人もこれを観て納得いかない。パレスチナ人への配慮的描き方が我慢ならないんだね。更に主人公がイスラエルを離れ、組織への協力を拒む段になると「イスラエル批判」と受け取る始末。もう、こりゃ批評なんて成立しない。スピルバーグは両者から完全に嫌われてしまった。まあ、それで良かったのかもしれない。彼の作家性が失われるよりはマシと考えるしかないよね。
スピルバーグは「あくまで史実に触発されてつくった物語」と語ったらしい。つまり事実を忠実に描くことが目的ではないということだ。これも一つの在り方だと思う。ただ僕ら観客は、このまま全て事実として受け取ってしまいがちだ。事実を扱う時はこういう危険性が伴う。どこが本当で、どこが嘘かなんて調べない限り判らないことだからね。ドキュメンタリーでさえ作家の視点が事実をねじ曲げることがあるのだから公平なものなんて成立しないのかもしれない。次回は意図的に事実をねじ曲げたユダヤ人によるプロパガンダ映画を紹介したいと思う。今回はこれまで。
殺す理由を与えないために ハマスと日本赤軍
そんなにパレスチナ問題は詳しくないのに、こうやって書き続けてると我ながら「何様?」という気になってくる。気軽に始めたブログも慣れないことに手を染めると、関連の本読んだり、映画を観ているうちに更新がままならなくなる。それはそれで楽しいんだけど、何やってんだろうねえ。
前回、紹介した映画「パラダイス・ナウ」という映画の中で「殺す理由を与えてはいけない」という台詞がある。ガザの現状を見ると僕にはこの言葉が頭をよぎってしまうんだな。イスラエルは停戦に持ち込もうとしてるのにも関わらず、ハマスはそれでもロケット弾を撃ってくるという。僕の感覚ではいつまで相手に殺す理由を与え続けるつもりなんだ?が先に立って、イスラエルというよりもハマス自身がガザ市民を危険にさらしているのだと思えてならない。もはやガザ市民が彼らを暴走させてはいけないんじゃないの?
原理主義=過激派はタチが悪い。何故なら彼らは「妥協」を許さないからだ。つまり話し合いでは解決する気がないんだからどうしようもない。「話し合い」は妥協点を探ることに他ならないからね。妥協=敗北なのだ。アメリカのオバマ大統領就任に合わせるように、停戦となる運びになったようだけど、どちらも勝ったと言ってるらしい。まあイスラエルは当然として、ハマスお前も言うか!って感じ。こいつらは懲りてないよ。どうせ体力が回復したらまた小競り合いが続いていくことになるんだろうね。
なんて事考えてたら、ふと一人の日本人女性が頭をよぎった。懲りない女。かつての過激派「日本赤軍」の最高幹部・重信房子だ。彼女はパレスチナの過激派に手を貸していた重大犯罪人、自らも数々のテロに関わっていた殺人者なのだ。彼女が数十年ぶりに日本に移送された際、しきりに笑顔で拳を突き上げていたのをテレビで見て、「わー、全然懲りてないんだな」と暗澹たる気持ちになったよ。まあ、自らを正当化できる場所にいたのだからしょうがないけどね。
げー、美人だ! 日本に戻った時
60年代に起こった全共闘運動。大学の授業料値上げに端を発する大学紛争なんだけど、やがて革命闘争に発展していったんだよね。詳細は書かずにざっくりいくよ。当時の学生達はまず二手に分かれるる。闘争する者とそうでない者。闘争に参加しない者はノンポリ(non policy)と呼ばれ軽蔑される存在になった。闘争が進むにつれ、その方針を巡ってまた二手に分かれていく。妥協しない者とそうでない者。闘争する過程で必ずこういう論理が顔を出すのだ。妥協=敗北。敗北者のレッテルを貼られた途端、そのグループは求心力を失っていくしかない。何を言っても「詭弁」とかいって罵られるだけ。こんな風に枝分かれして、内部分裂を起こしていったもんだから学生運動そのものが沈静化の一途を辿っていったんだよね。でも取り残されてしまった妥協しない者たちはどんどんエスカレートしていくしかないのだ。(だって止めてしまうのも敗北だからね。終わりはないのよ.)
安田講堂
最初は大学が相手だったはずなのに、事は大きくなって国家が敵になり、次は世界全体を敵に回すのかと思いきや、実際は自分の内面の弱さとの闘いになっていくという皮肉。だって妥協=敗北だからね。もう甘いこと言えなくなっちゃう。臆病者呼ばわりされたくなくて、心にもない事を口走ってしまう。過激であればあるほど勇敢ってことになるから、集団はそちらに傾いていくしかないよね。もはや現実の自分と乖離したモンスターになっていくのだ。そんな連中が集まって組まれたのが「連合赤軍」よ。大雑把すぎる?この時点で彼らは社会から完全に見放されている。(ハマスとはここが決定的に違う)まるで追い立てられるように彼らは山に籠り、「総括」という言葉のもと、自らの政治的反省や、仲間の告発を通して更なる純化をはかっていったわけ。その揚げ句の果てに浅間山荘に立て篭ったり、パレスチナに行ってテロ行為に手を染めたり、よど号ハイジャック事件を起こして北朝鮮に行くなど、結局、空中分解してしまった。当然の帰結とはいえ、もうめちゃくちゃよ。
浅間山荘 パレスチナのテロ行為に日本人が関わっていた
高度経済成長で、豊かになった以上、日本人は彼らを必要としてはいなかった。むしろ外国に行ってくれてせいせいしているわけ。彼らは自分を必要としてくれる場所を探して放浪することになったのだ。パレスチナに行った重信達は自らを「日本赤軍」と名乗った。そして数々のテロを起こし、世界にその名を轟かせた。そして彼らの純化された妥協しない精神は、ハマスらイスラム過激派に受け継がれていったんじゃないの?
本来、人は環境に順応させて生きていくもの。寒いところにいれば、そこで生き残るための体になっていくし、知恵も備わっていく。もしそこがイヤなら暖かい土地に移り住むしかない。彼らは順応することよりも、イデオロギーに縛られるあまりに、今いる世界を変えようとしたんだよね。でも世界を変えるにはそれを望む人が多くないと成立しない。そっぽ向かれて失敗に終わった。これってオーム真理教もやったこと。うまくいくはずもない。だって日本って悪いところもいっぱいあるけど、そこそこいい国なんだから。それがイヤなら自分の居心地のいい場所に移り住んてもらうしかないよ。重信房子が何を言おうと、僕は彼女が単なる自己実現のためにテロで多くの命を奪ったとしか思えない。帝国主義の打倒?ふざけるなって感じ。
パレスチナのほとんどの人は何とか環境に順応させて生きていこうとしている。もちろんイスラエルに対しては憎しみを持っているんだけど、それを振りかざしてもどうにもならないことを、特に女性達は判っている。一本の映画を観た。「ガーダ パレスチナの詩」。この映画は戦火の中を逞しく生きるガザ地区の女性達を描いたドキュメンタリーで、日本人の女性が単身乗り込んで作った作品だ。まあ、あくまでドキュメントなので観る人を選ぶと思うんだけど、ガザがどんなところなのかよく判るので、それだけでも観る価値はあるかな。
「ガーダ パレスチナの詩」
今から5〜6年前のガザが描かれてるんだけど、もう既に街は廃墟だらけなんだよね。ハマスという言葉が出てこないので、ずっと以前から市民レベルの抵抗が続いていたって事になる。ただね。この映画を観る限り、市民の抵抗はまるで学生運動のレベルを超えてないんだな。小さな子供から大人まで石を集めてきて、戦車や装甲車にひたすらぶつけるだけ。貧しくて鬱屈した感情を吐き出しているのは判るんだけど、これでは相手に「殺す理由」を与えるだけ。実際、イスラエルは石に対し、発砲してくるのだから被害が大きいのはガザの方。
イスラエルの戦車に向けて石を投げる少年
ハマスが生まれたのは必然だよね。彼らが他のイスラム過激派やイランから支援を受けて、石の代わりにロケット弾を持ち込んでくれたのだ。市民からすれば彼らはヒーローに映るかもしれない。でも石がロケット弾になったからといって、なんだっての?事態は良くなるどころか、悪くなるだけ。その結果が今回のガザ侵攻じゃないの?
映画の中で少年が撃たれて死ぬシーンがある。親戚は当然,イスラエルに対し怒りをぶつける。「この子は後ろから撃たれてるのよ!ということは逃げていたということ。そんな子に発砲するなんて人のやることじゃない。」残念ながら、無謀な戦いに身を置けば、そのような事態は避けられないよ。そして殺されるのは弱い立場の人間ばかりだ。
この映画のタイトル「ガーダ」とは主人公の女性の名前だ。彼女の人生を通して、パレスチナが見えてくる構成になっている。とにかくバカなのは男どもで、女は偉大だなと痛感させられる。女は石なんて投げないしね。少なくともイスラエルに「殺す理由」は与えてはいない。不満はあっても、みんなで楽しく詩を歌うんだよね。貧しい中でも大らかに生きようとしている。一方、男はバカの一つ覚えのように「占領は死も同然」と叫ぶだけ。どっちが利口よ。ガーダは親戚の子供の死をきっかけに、自分なりの闘いを始める。ガザの女性達の歴史を本にしようと思い立ったのだ。石を投げるより、ペンの方が効力あるでしょ?
もし日本が豊かになることはなく、政治が腐敗し、貧困にあえいでいたら、「連合赤軍」は英雄になっていたのだろうか?彼らの国家へのテロ行為に胸をスカッとしていたのだろうか?そう考えると、パレスチナがこのまま貧しければ、この争いは永遠に続くしかない。もし止められるとすればパレスチナ自身が変わらなければならないのが現状だと思う。理不尽だけどね。イスラエルに「殺す理由」を与えない国家になるしかない。そして経済的な豊かさを追求して生活の水準を上げていくしかない。そうすれば、仮にイスラエルから酷い目にあっても、世界は放っておくわけにいかなくなる。国際社会に訴えることもできる。つまり「イスラエルを非難する理由」を世界各国に与えてあげないと事態は進展しないと思う。イスラム過激派のハマスが実権を握っている限り、世界はむやみに援助なんてできないし、イスラエルに対し強い事は言わないからね。もうそれしか道はないと思うんだけど・・・それこそ幻想なのかな?
「イスラエルのガザ侵攻」ってどういうこと? その4 「パラダイス・ナウ」からパレスチナを知る
テレビを観ていたら、新成人にインタビューをしていた。「日本で最後にあった戦争はいつですか?」 正確に答えられたのはたった18%。ちょっと驚いてしまった。これが現状なの?更にその珍回答ぶりには驚きを通り越して呆れてしまった。(もちろん、面白いのをピックアップしてるんだろうけど・・)戦争があった事さえ知らない子。昭和に戦争はなかったという子。学校で習わなかったと言う子。恥ずかしさなど微塵もなく笑い転げている。うーん、知らなくたってそんなには困らない。でも、明らかに知性や教養を意識的に拒否してるとしか思えないよね。僕も勉強は出来る方じゃなかったけど、「終戦日」なんて常識の範囲だと思っていたよ。『いい国(1192年)つくろう鎌倉幕府』みたいに、憶えたって意識もないんだよなあ。なるほど。僕は以前、ブログで映画「私は貝になりたくない」なんて今更リメイクされても・・なんて事書いたけど撤回します。こうなったらどんどんジャニーズで反戦映画作ってください。イケメンで戦争ドラマ作ってください。学校では戦国時代なんかより、近代史を教えて下さい。(もっとも、終戦日を習わなかった子が戦国時代なら詳しいってことはまずないと思うけど・・)
前回、イスラエル寄りの内容で書いたので、今回、パレスチナ人寄りで書こうと思うんだけど、なんかあの番組見た後じゃ脱力感をぬぐえないなあ。
パレスチナ人はどうして勝ち目のない抵抗を続けるのだろうか?日本は敗戦後、安保闘争はあったけど基本的にアメリカの言いなりになって、やがて経済大国になっていったよね。そういう道もあったはず。何故そうならないか?それはある一本の映画を観てもらえればある程度理解できると思う。パレスチナの現状、パレスチナ人の心情。そして自爆テロ実行者の意識をある程度描いているからだ。僕がとやかく書くより観てもらったほうが早いんだけど、ガイドと感想を交えてここは書いてみようと思う。映画のタイトルは「パラダイス・ナウ」公開当時は評判にもなったし、アカデミー賞の外国映画部門にもノミネートされていた。
「パラダイス・ナウ」
パレスチナ人監督とイスラエル人プロデューサーが手を組み、ゴールデングローブ賞受賞を果たした話題作。自爆攻撃者に選ばれたふたりの幼馴染みが、葛藤しながらテロ決行に至るまでの48時間を描く。
この映画の舞台はガザ地区ではないんだよね。同じパレスチナ自治区のナブルスという街。西岸地区ではもっとも大きな街らしい。この荒廃ぶりを見ると、他の街も似たり寄ったりなのかもしれない。
ナブルスの街
自治区とはいっても事実上、イスラエルの占領下にあることが映画を観ればよく判る。至る所にイスラエル兵による検問所があって、パレスチナ人は街間の往来を自由に出来ない。夜にもなれば道路は封鎖されてしまうので、街全体が牢獄と化してしまう。
パレスチナ人が常に行列を作っている。
そんな環境の下、ほとんどの若者はちゃんとした仕事もなく、未来など描けないまま夢も希望もない毎日を送っている。貧困が街を覆い尽くす中、年寄りならそんな現状を耐え忍ぶことができるかもしれない。でも血気盛んな若者にとってそれは堪え難い苦しみであり屈辱に違いない。何故なら人はどんな苦しい環境にあっても、希望さえあれば生きていけるから・・・それさえも奪われてしまったら行き場などない。彼らにとって「占領は死も同然」なのだ。
この映画の主人公、サイードとハーレドはイスラム教徒だが、決して狂信的には見えない。むしろごく普通の若者に映る。そんな彼らが次の自爆テロ実行者に選ばれるんだけど、彼らは平然とその事を受け入れる。長い間、自分の出番を待っていたんだね。もはや彼らに人生の選択肢は少ない。このまま屈辱の中で生きていくか?自爆テロで死んで英雄になるか?二つしか選択肢が用意されていないのだ。若者なら後者に流れていくのもうなづける。選ばれるだけでも嬉しいのに、死んだ後は組織が家族の面倒を見てくれ、街中に自分の顔が刷られたポスターが殉教者として貼られるのだ。そして魂は天国に導かれる。こんな名誉なことはないのだ。少なくとも彼らにとってはね。「世界を君たちが変えるんだ」
街中に貼られた殉教者のポスター
その翌日 地下活動グループの司令部にやってきた二人は最後の準備を行う。典型的なイスラエル人に化けるため、ひげを剃り、髪は短く切られ、パリッとしたスーツを着る。ポスター用の写真、ビデオメッセージを撮影した後、みんなで最後の晩餐をとる。横一列に並ぶその様は、まるでダヴィンチの絵さながらだ。これらの儀式を通して、二人は殉教者に生まれかわるのだ。
普通ならこのまま二人は自爆テロを決行するのだろうが、当然、映画はそれで終わらない。そんな価値観を揺さぶる存在が現れる。スーハという若い美貌の女性──上流家庭に生まれ、フランスで育ったパレスチナ人──が二人と関わることで新たな葛藤が生まれるのだ。彼女は言わば、近代社会においてスタンダードな考えの持ち主であり、代弁者だ。僕ら日本人にも理解しやすいものじゃないかな?
「教えて 何故こんなことを?」
「平等に生きられなくとも、平等には死ねる」
「平等のために死んだり、人を殺す事のではなく、平等のために生きる努力をすべきじゃないの?」
「あんたの言う人権でか?」
「それも一つの可能性よ。とにかくイスラエルに殺す理由を与えてはならないのよ。」
「無邪気なもんだな。自由は闘って手に入れるものだ。不正がある限り自分を犠牲にするものは必要だ」
「犠牲なんかじゃない。ただの復讐よ ただの人殺し・・」
「やつらは飛行機で空爆してくるが、俺たちには何もない。自爆して対抗するしか方法はないんだ。」
「それは見当違いよ。武力でイスラエルに対抗しても勝ち目ないのよ。」
「いや、死だけは常に平等だ。俺たちは天国に行けるんだ。」
「いい加減にして!天国なんて想像上のものよ」
「地獄で生き続けていくよりも、想像上の天国の方がマシだ。」
イスラム教徒の会話とは思えないよね。最後に「想像上の天国のほうがマシだ」は彼らにとって神はそれほど大きな存在ではないことを物語っている。ただ、神の存在に疑いを持っているとしても、それにすがりつくしかない過酷な現実が哀しいのだ。疑念を振り払いながらも想像上の天国を夢見て、彼らはどうにか死ねるのかもしれない。
タイトルのパラダイス・ナウの意味を監督はこう言っている。パラダイスは来世、ナウは今を意味している。本来並列出来ない言葉だけど、自爆テロを実行した瞬間、その人は今と来世を同時に体験することになるということらしい。なるほど。僕は英語は得意ではないので、「今が天国」?どういう意味だ?なんて考えてしまった。
テルアヴィブの外観
主人公の目的地はテルアヴィブ。イスラエルの首都であり、もっとも近代的に発展した街だ。ビーチが広がり、楽しげな水着姿の観光客が主人公達の目に飛び込む。彼らにどう映ったのだろう。まるで天国のように感じただろうか?このような格差がある限り、パレスチナ人の自爆の連鎖は止まらないだろう。復讐は復讐を生むだけ。それでもやり続けるしかない彼らの状況。このあとストーリーがどうなるかは書かないでおく。ぜひ観てください。今回はこれまで。
「イスラエルのガザ侵攻」ってどういうこと? その3 イスラエルの覚悟
世界の世論は「悪のイスラエル パレスチナの悲劇」一色になってるようだ。確かに現状においてイスラエルはやり過ぎの感がある。ほぼ一方的に砲弾の雨を降らし、危険な化学兵器も使用するなど、無差別に殺戮を続けているような印象を受ける。しかもガザ市民は逃げ場を失ったカゴの鳥。神に祈る他ない状況にあるのだ。実際こんなことがあったらしい。
「一族がまとまって住んでいるサムーニ家の住居にイスラエルの軍隊がやってきて、110人もの一族全員をひとつの建物の中へ避難するよう指示したが、その建物は翌日イスラエル軍によって砲撃された。」
事実なら、あまりにも非人道的な行為。もはやイスラエルの標的は「ハマス」にとどまらず、パレスチナ人の殲滅にあると思われても仕方ない。もう少しやり方がなかったのだろうか?これでは世界から非難を浴びるのも当然だ。もしこれを止めれるとするば、世界が一丸となってイスラエルに対し、何らかの圧力をかけるしかないんだけど、イスラエルはそんな事覚悟の上だろう。「やれるもんならやってみろ!」彼らはもういい加減に堪忍袋の緒が切れてるのだ。
ナチスの鍵十字架がイスラエルの旗に・・・なんという皮肉
報道はどうしても弱者の上に立ってしまいがち。強者=悪、弱者=善というわけだ。でもそれは今回の場合、ぴったり当てはまらないと僕は思う。ナチスのホロコーストみたいに、強者がただ一方的に弱者を虐殺したのではなく、パレスチナ側にも非があると言わざるを得ないからだ。世界各地で紛争は多発してるけど、その多くは民族間の対立がほとんど。虐殺は度々起こってるけど報道はあまりされない。恐らく圧倒的な強者がいないからじゃないか?って邪推もしたくなる。そんな判りやすい構図をマスコミは望んでいるのだろう。今回イスラエルは格好の餌食になったわけだけど、たいていの場合、戦争に善悪を持ち込むのは難しいんじゃないの?。何故ならどちら側にも「正義」が存在するからだ。
ここはあえてイスラエルの立場になって考えてみたいと思う。彼らにとってこの行動以外に選択の余地はなかった。「殲滅」あるのみ。あってはならないことだけど、そう考えるのも判らないでもないんだよね。
イスラエルは孤立した国だ。回りの国は全て自分たちを嫌っている連中ばかり。これってかなり戦々恐々となる状況のはず。これって危険レベルは全く違うけど日本にも当てはまる状況じゃない?だって中国、北朝鮮、韓国から嫌われてるからね。韓国なんて「竹島」、「対馬」という日本の領土を本気で奪おうとしているからね。
想像してみよう。もしそれが更にエスカレートして、北朝鮮あたりが頻繁にロケット弾とか、テポドンとかしょぼいながらも延々と攻撃してきたらどうだろう?アメリカが助けてくれるかと思いきや、何もしてくれなかったら?当然、僕らは政府に望むよね。「なんとかしろ!この攻撃をやめさせろ!」って叫ぶに違いない。
日本には軍隊がないから、当然話し合いしか手だてがない。だから交渉したいんだけど、相手は聞く耳を持たない。「日本人を殺せ!」の大合唱。それどころか中国や韓国も北朝鮮に援助している様子で、不穏な空気は更に高まっていく。そんな状況で対話で解決なんて無理に決まってるでしょ?僕らはその攻撃をただ見ているだけなの?何人も人が死ぬのを黙ってられるのかな?本土に侵攻してきたら簡単に明け渡してしまうの?政府が何もしてくれなかったら、当然失望するよね。イスラエルはそれと似たような状況にあったと思う。
話はオスロ合意に遡る。こっからは僕の想像というか創作。
クリントン アメリカ大統領
「このまま殺し合っててもしょうがないだろ?ここはさ、ラビン君、ガザ地区と西岸地区の自治をお試しでアラファト君に任せてみたらどうかね。」
ラビン イスラエル首相
「でも、こいつらちゃんと監視してないとさ。どうせまた調子に乗って良からぬ事考えるに決まってるからね。それは無理。」
アラファト PLO代表
「いや、君の言う事は判るよ。でも私たちに一度でいいからチャンスをくれないか?なんとか君たちユダヤ人と共存できるように努力するからさ」
クリントン アメリカ大統領
「世界がそれを望んでるんだ。私たちも協力するからさ。もしダメだったらアラファト君、判ってるよね。アメリカは君たちを守らないよ。」
アラファト PLO代表
「うーん、やむをえないでしょう。」
ラビン イスラエル首相
「でもねえ。うちの国の連中がこれ聞いたら怒るよ。こんな妥協許さないってね。僕も命が危なくなる。」
クリントン アメリカ大統領
「あくまで自治権を与えるだけだからさ。心配ないって。」
ラビン イスラエル首相
「仕方ない。うちらも平和に暮らしたいからね。やってみよう。その代わり、常に監視はしてるからね。何か不穏な動きがあったらすぐに叩くよ。徹底的にやるつもりだからその覚悟はしてもらわないと」
アラファト PLO代表
「ありがとう。恩に着るよ」
こんな感じでオスロ合意に至ったんじゃないのかな?でもご存知の通り、うまくいくはずもなかった。ラビンは心配した通り、自国民の過激派に暗殺されてしまった。イスラエルにもこの合意に異を唱えるものが一杯いるのだ。
イスラエルからすれば、パレスチナにかなりの譲歩をしてやったつもりでいたと思うよ。その時点でガザも西岸地区も事実上支配していたわけで、勝利は確定していたのだ。パレスチナ人をすぐに追い出せる状況にあったんだよね。でも他のアラブ国からすればパレスチナ難民が流れてきても困るので、なんとかその場に留まって欲しかった。そこでイスラエルの親友、アメリカの登場だ。ここでアラブ人に恩義を売っておくのはアメリカにとっても悪くない話。結局イスラエルは親友の顔を立てて、仕方なくここは一度折れて上げたのだ。自治権を与えてやったかわりに、監視体勢を厳しくすることで、自国民の批判を抑えようと努めた。もしこの試みが失敗したら、政府は転覆しかねないからね。それは必死だったんじゃないかな?
一方。パレスチナは感謝すべきイスラエルに対し、憎しみを増すばかり。やがてPLOの自治も腐敗が横行する事態となり、イスラム原理主義の流れを汲んだハマスがガザ地区に出現する。彼らは自分の生活を面倒見てくれる上に、にっくきイスラエルを殲滅しようと掲げている。パレスチナ人にとって、彼らはヒーローであり、救世主に映ったに違いない。
僕は感謝すべきと書いたけど、あの時点では追い出されなかっただけマシと考えるしかない状況だったはず。イスラエルの譲歩をいいことに、そういう夢想を抱くには時期が早過ぎたとしか言いようがない。だって勝ち目のない戦争になるのは目に見えているからだ。イスラエルは2000年の時を経て,闘う力をつけてパレスチナの土地に戻ってきたのだ。敵うわけないでしょ?
「お前らに任せたらこのザマだよ。あの時の約束忘れてないだろうな」この事態をイスラエルが黙って見ているわけにはいかないでしょう?イスラム原理主義者の台頭は、イスラエルにとっては脅威だ。原理主義ってのはタチが悪い。要は妥協を許さない人達よ。厳格に戒律を守り、目的のためには手段を選ばない連中だからね。こんな連中を放っておくわけにはいかないのだ。
ハマスの宣伝ビデオ?
ハマスは自分の力を過信したのか、イスラエルに対し。自爆テロ、ロケット弾攻撃とやりたい放題。
イスラエル政府に国民から非難の声が上がる。「このまま黙ってるつもりなのか?なんとかしろ!」支持率の下がる中、政府はとりあえず、ガザとイスラエルの間に壁を造った。これのおかげでガザからハマスは出れなくなって、自爆テロはなくなった。でもロケット弾攻撃はやまない。更に彼らは壁越しに反撃をすると同時に、水や電気の供給を止め、兵糧攻めに遭わせた。世界は停戦を呼びかける。言われる通りにしたが、ハマスは攻撃をやめない。その頃、アメリカでオバマが勝ったというニュースが流れる。「こうなったら今しかないぞ。ブッシュ政権なら、俺たちが何をやっても手出しはしないだろう。でもオバマになったらわかんないぞ。奴が大統領に就任する前に、ハマスを壊滅させるしかない。どんな手を使ってでも目にもの言わせてやる。約束を破ったのはお前達だ!」
イスラエルはとうとうガザ侵攻を開始した。
ガザの市民は生きるという事が大事ならば、ハマスと手を組むべきではなかった。実際、市民の中にはハマスを支持していないと声をあげる人もいるらしい。生きる事より民族の誇りを大事にするなら、こうなることは覚悟しないといけなかった。ガザは死を選んだとしか思えない。
イスラエルはハマスが殲滅するまで、徹底的にやるだろう。それまで彼らはかなりの譲歩をしてきたのだ。そして我慢の限界を超えたのだ。ハマスの存在が国民に危機をもたらしている以上、政府としてはやるざるをえないのだ。実際、国民の90%以上がこの攻撃を支持しているという。ここでヒューマニズムを持ち出しても彼らには届かない。パレスチナ人がこれを通し、更に憎しみを抱くであろう事は重々承知の上だ。今そこにある危機を回避することが重要課題なのだ。イスラエルの力を徹底的に見せる事で、抵抗する気力・その数を減らす事さえできればいいのだ。
イスラエルの覚悟を前に、世界は何もできずにいる。というか黙認している雰囲気もある。だってハマスの存在は近隣のアラブ諸国にとっても脅威なのだ。できればイスラエルに葬ってほしいと思っている国もあるに違いない。いろんな思惑が交差する中、ガザの市民は今も殺され続けている。今日はこれまで。
「イスラエルのガザ侵攻」ってどういうこと? その2 イスラエル建国〜現在
前回の続き。かくして2000年の時を経て再びイスラエルが建国されることになったんだけど、そこには当然、パレスチナ人が住み着いちゃってるよね。追い出すわけにもいかないので、国連はその土地を二つに分割することを提案した。「ユダヤ人の国とパレスチナ人の国を造るのでお互いうまくやりなさい」ってな感じで・・・まあ、勝手な言い草だと思うよ。そこで示されたのが左下の地図。緑がユダヤ人の領土。赤がパレスチナ人の領土。あれ?これおかしいよね。明らかにユダヤの領土がでかい。当時はユダヤ人の数はパレスチナ人より圧倒的に少なかったのに・・・(ユダヤ70万・パレスチナ130万)
これは不公平でしょ?パレスチナ人だけじゃなくアラブ人も全員「ふざけんじゃねえ!」って怒りに震えたと思うよ。一方、ユダヤ人は大喜びかと思いきや、浮かない顔なんだよね。なんと欲深い・・理由はただ一つ。自分たちの領土にエルサレムが含まれてなかったからだ。(右下の地図で場所確認してね)
1947年当時の分割案 中央の白い部分がエルサレム
さて新しいキーワード「エルサレム」のことを書かないわけにいかない。エルサレムはユダヤ教、イスラム教、キリスト教にとって重要な聖地なのだ。ユダヤ人にとっては、かつての王国の首都であり、ユダヤ教の象徴「エルサレム神殿」のある場所。アラブ人にとってはイスラム教の創始者ムハンマド(モハメット)が旅立ったという伝説を残す「岩のドーム」があり、キリスト教徒にとってはイエスキリストが十字架に掛けられた場所なのだ。それぞれが違う理由なんだけど、聖地である以上、争奪合戦になるのは当然かもしれない。
エルサレムの全景
イスラエルが独立を宣言(1948年)すると、翌日には、ユダヤ人VSアラブ人の全面戦争へ突入した。でも、これってどう考えてもイスラエルに勝算あるとは思えないよね。数が余りにも違うでしょ。(アラブ人15万・ユダヤ人3万)実際、最初はアラブ連合が優勢だった。でも次第にアラブの内部分裂が起こったり、イスラエルが軍備を整えていくうちに形成は逆転していく。ユダヤ人は欧米の軍に所属していた兵士が多く、近代戦の闘い方を熟知してたんだね。特に優秀なパイロットを抱えていたので空中戦はお手の物。完全に制空権を握ったのだ。こうなったらイスラエルの勢いは止まらない。上の地図で示されたエリアよりも多くの地域を征圧してしまったのだ。かろうじてガザはエジプトが死守。ヨルダン川の領域をヨルダンが死守し、それぞれが領土とする事で一時停戦する運びになった。地図は下の通りになってしまった。分割案と見比べてね。
難民達の姿
明らかにイスラエルの領土が拡大されてるよね。なんのために戦争しかけたのか?アラブ人面目丸つぶれ。パレスチナ人は同じアラブ人のいるガザとヨルダンの地域に命からがら逃げ込むハメになってしまった。この時から彼らをパレスチナ難民と呼ぶようになったのだ。パレスチナ人は踏んだり蹴ったり。国を建設するはずだったのに、自分の領土を全て失ってしまった上に、家財や資産も没収されることにもなったのだから。これは恨むよね。アラブ人もこのまま黙ってるわけにいかない。小競り合いはずっと続き、4回戦争が行われたんだけど、結局アラブ人にはどうすることもできなかった。それどころか、ガザとヨルダン地域までもイスラエルに取られるはめになってしまった。もうアラブ人お手上げ状態。この争いからとうとう手を退いてしまった。パレスチナ人はがっかりだよ。もうアラブ諸国に頼れなくなってしまったのだから・・
そこで登場するのが、PLO(パレスチナ解放機構)。パレスチナ人が抵抗組織を自ら作ったのだ。当初、PLOは「ユダヤ人を海に突き落とせ」という反ユダヤ主義のスローガンを挙げるテロ集団みたいな存在だった。実際イスラエルに対しテロ攻撃を行っていたんだけど、当然それでは埒が開かないこともあって、次第に方向転換を計るようになり「イスラエルと共存するヨルダン川西岸地区およびガザ地区でのパレスチナ国家建設」と打ち出すようになっていった。この時のPLOの責任者が有名なアラファト議長だ。
アラファト議長 ラビン イスラエル首相 オスロ合意
そして1993年、イスラエル政府と秘密交渉を行い、ガザ地区・西岸地区におけるパレスチナ人の暫定自治を定めたオスロ合意にこぎつけたのだった。こうしてガザ地区と西岸地区からイスラエルは段階的に出て行く事になり、その地はパレスチナ自治区と呼ばれるようになった。事実上のパレスチナ国家承認だ。二人はその功績によってノーベル平和賞を受賞した。めでたしめでたし。
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って訳にいかないことは皆さんも知っての通り。その後、今度はパレスチナに内部抗争が勃発するんだよな。全く懲りないというかなんというか・・・この和平に不満を持つグループが台頭してきたのだ。それが今、話題のハマス。PLOはファタハという政治グループ(アラファトもそうだった)が主流となって実権を握っていたんだけど、政治を任されると、次第に汚職や人権侵害などするようになり、パレスチナ人の反感を買うようになったのだ。全く人間というのは愚かとしか言いようがないね。ハマスはそんな状況の中、ガザに誕生した。彼らは職業訓練や病院の経営などの慈善活動を通して,住民の支持を広げていき、イスラエルに対しては徹底抗戦の態度を示した。そして議会で過半数以上の議席を獲得し、政治的実権を握ってしまうのだ。
ハマスの兵士 タリバンの兵士 ハマスがタリバンのような組織でないことを願う。
彼らってイスラム原理主義寄りなんだよね。だとすれば僕はアフガニスタンのタリバン政権を連想してしまう。初めタリバンは民衆に支持されていたんだけど、権力を握ると酷い圧政を行ったのだ。だからロクな事にはならないはずなんだけどね。とにかくハマスはイスラエルに対し数々のテロ攻撃を行った。イスラエルも当然抵抗する。それ以降は、みなさんもニュースでご存知の通り。
この壁はイスラエルとパレスチナ自治区の間に設けられた壁。ハマスの台頭以降、あまりにもパレスチナ人による自爆テロが横行したために、自由に出入りをできないようにイスラエルが設置したのだ。このため、パキスタン人は自治区内に閉じ込められてしまった。そして更にイスラエルはエネルギーの供給を止め、物資の流通もできないようにし、兵糧攻めにあわせたのだ。益々生活が苦しくなるパレスチナ人。ハマスはロケット弾をイスラエルに向けて撃ち続ける。イスラエルはとうとうガザに侵攻を開始した。
この映像はガザの現実を映し出している。日本のテレビでは見れない映像だ。もはや、日本のテレビは洗浄された情報を流すばかりで、真の姿を覆い隠すばかりだ。確かにショッキングな映像だが観る価値はあると思う。子供には見せない方がいいけどね。でも真実を知るには、テレビには期待できない。テレビがどれだけ事実の深刻さを漂白してるかがよく解ると思う。インターネットにはむき出しの映像と、有識者の優れたレポートが存在する。それらを駆使、選別しながら真実の姿を見極めるしかないんじゃないかな。
とにかく酷いことになっているのだ。1/07現在では死者600名負傷者2400名を越えたという。化学兵器(白燐弾)も使って、ジェノサイド(大量虐殺)の限りをつくすイスラエル。ガザの市民は壁に囲まれているので逃げ場はなく、食料も絶たれているので飢えて死ぬ子供もいるという。イスラエルは大罪を犯した。歴史的に許されないことをやってしまったのだ。
でもこの争いには、欧米の姿が見え隠れしてることを忘れちゃいけないよね。中東戦争がこれだけ拡大したのはイスラエルに欧米が武器を供給し、アラブにはソ連がその役を担っていたからに他ならない。要するに米ソ冷戦の代理的側面が大きかったのだ。イスラエルは核武装もし、巨大な軍事国家となってしまった。もはや誰にも止められない状況なのだ。今回のガザ侵攻に対し、世界は何もできない。イスラエルと友好関係にあるアメリカはイラク戦争の失敗と金融危機も重なって介入するはずもなく、欧米各国も同様に手を出せないだろう。現在、エジプトが仲介に入ろうとしているが、あまり期待できない。レバノンは交戦必至の様子。このまま放っておけば、また再びアラブを巻き込み、大戦争に発展するやもしれない。僕らはそれをただ注視するしかないのだ。
最後に。僕が書いた文はかなり事実をはしょった部分があります。他にも重要な事柄はいくつかあると思うので、詳しく知りたい人は自分で調べてね。それでは。
「イスラエルのガザ侵攻」ってどういうこと? その1 紀元前〜第二次世界大戦直後
年末に起こった「イスラエルのガザ侵攻」ってニュース。興味ある人ってどの位いるのだろうか?宗教と民族問題が絡むと、日本人にはあまりピンとこない話。中東ではこんなことしょっちゅう起こってるから「またやってるな」って感覚の人が多いんじゃないかな?実は僕も内情は詳しくなかったりする。「ガザ」ってどこにあんの?そもそも何故イスラエルは侵攻したわけ?新聞にも特集を組んでたりするけど、いまいち解りにくい。この問題をイスラエル建国時代から説明されても本質は見えてこない。聖書の時代。紀元前に遡る必要があるんだよね。
まず事態を複雑にしている要因に民族の定義がバラバラだったりすることにあると思うんだよね。民族は血縁的・文化的・地域的・宗教的なことで分類するための呼び名だったりするので、それが混在して使われると訳が判らない。ユダヤ人は宗教的名称で、「ユダヤ教を信じる人達」が一般的。他に「ユダヤ人を親に持つ者」という血縁的意味も含まれるんだけど、もはや血なんて混在してしまっているので外見じゃ判断できない。だってユダヤ人は昔から流浪の民であって、世界中に散らばっているからね。その間に他民族の血が混ざってしまうのは必然でしょ?アラブ人は宗教的.文化的名称で「アラビア語を話し、イスラム教を信じる人達」を一般的に指す。もちろん例外もあってイスラム教を信じてない人もいるそうだ。ごく僅かだろうけど・・そしてパレスチナ人は地域的・文化的・宗教的名称、で「パレスチナに住むアラブ人」を一般的に指す。つまりパレスチナ人とアラブ人は同じ民族だってこと。このへんを踏まえておかないとダメなんだよね。
左上の地図を見てもらうと、イスラエルってかなり小さいよね。ここが唯一ユダヤ人が集まってる場所。その周りの国はほとんどアラブ人と思っていいでしょう。これだけでかなりやばい雰囲気。右上はイスラエルの地図。ここにパレスチナ自治区ってのがある。そこに今話題の「ガザ」があるんだけど、これもどう考えても、詳しいこと知らなくたって、やばいでしょ?どうしてこんな事になってるんだろう?みなさん知ってます?詳しく知ってる人は世界通だと思う。この先読まなくてもOK。間違いチェックしないでね?
実際はとても複雑な問題なんだけど、ざっくりあらましを書いていく。紀元前からの話だからね。
要は聖書に書かれていること。これを宗教的に見るか、物語として見るかは自由。ただこれを熱烈に信じている人達が世界の大半を占めているということを忘れてはならない。なので一応、事実として書くよ。
舞台は古代エジプト。そこでユダヤ人は平和に住んでいたんだよね。(当時はヘブライ人とかイスラエル人とか呼ばれていた)でも新しい王になると、事態が一変してしまう。信頼する予言者から「ユダヤの民がエジプトに災いを起こす」みたいな事を告げられるのだ。王はそれを境に、ユダヤ人を迫害するようになり、滅ぼそうとする。そこで立ち上がるのがモーゼって人、神から「ユダヤ人をエジプトの地から脱出させよ」ってお告げを受けて、民族大移動を実行するのだ。まあ、これが4千年の争いの始まり。これは映画にもなってるのでとても有名なお話。
そして数十年の年月をかけて辿り着いたのがカナンの地(promised land)この地は「乳と蜜の流れる地」(肥沃で豊かな場所)と呼ばれ、ちょうど今のイスラエルの場所にあたる。当時住んでいた人々から奪うようにして、ユダヤ人の国を建設したんだな。(当然、大虐殺があったのよ)イスラエル王国の誕生だ。(後に2つに分裂)
ほぼ今のイスラエルと同じ場所でしょ?
とまあ、しばらくはうまくやってたんだけど、結局は列強国によって滅ぼされてしまう。戦争捕虜となり、やがて開放されると、大帝国ローマ支配の下「ユダヤ属州」として存在を許されることになる。それで我慢すればよかったのに、属州であることに絶えられないんだね。ローマに対し反乱をを起こしてしまうんだな。(バル・コクバの乱)敵うわけないのにねえ。結局それが仇となり、ユダヤという名は地図から消え、パレスチナ・シリアという名称に取って変わってしまう。ユダヤ人達は難民となって世界各方面へちりじりになっていく。
ユダヤ人が去り、この地はパレスチナ地域となったんだね。そしてそこに移り住んできたアラブ人をパレスチナ人と呼ぶようになったってこと。
それが約2000年続く事になるのよ。途方もない年月だ。ユダヤ人は国を持たない流浪の民となり、終わりなき差別、迫害を受ける事になる。移民が嫌われるのはどこでも同じだけど、特にユダヤ人は目の敵にされた。大きな要因としては2つ。まずイエス・キリストを十字架にはり付けたのがユダヤ人であったこと。これはキリスト教を信じる人達にとっては気にいらないよね。もう一つはユダヤ人に商才があったこと。金貸し業はユダヤ人が最初に始めたというし、経済界を牛耳っていたところがあった。上の地図を見ると、彼らが世界中にネットワークを形成してるのがよく判るよね。その意味で情報戦でも抜きん出ていた民族ということになる。逆境を歩んできた民族の逞しさといったところか。
こうしてユダヤ人への反感が高まるにつれ、彼らの間に「シオニズム運動」というのが起こり始める。早い話「あのイスラエル王国のあった場所に戻って、国を再興させてえなあ!」って事。眠れる獅子が目を覚ますように、経済的に豊かになったユダヤ人達は、パレスチナの土地に移り住むようになっていく。パレスチナ人からすると不気味だよ。「お前ら、何企んでんだよ!」って感じ。日本人なら,対馬の土地を韓国人が買いまくってることを連想すればいいと思う。そして更にその行動に拍車をかける事態が起こってしまう。世にも恐ろしいドイツ・ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)だ。
当時ドイツは不況に喘いでいた.ドイツ国民は仕事に就けず、その原因を銀行を牛耳っていた裕福なユダヤ人のせいにした。その怨念がナチスを生んだといっても過言ではないだろう。国民支持のもと、ユダヤ人大虐殺が始まった。パレスチナに逃げたユダヤ人も多くいたけど、それでも600万人が殺されたという。(確かに強制収容はされたけど、アウシュビッツの大量虐殺はないという意見もあるということを書いておく)
アウシュビッツ収容所
でもこの大きな犠牲が、ユダヤ人の一つの光明をもたらした。イギリスをはじめ列強国が、その代償としてイスラエル王国のあった場所にユダヤ人の国を造る事を承認したのだ。かくして1948年、イスラエルが正式に主権国家として建国されるに至ったのだ。
しかし、これを聞いたパレスチナの住民は慌てるよね。「ちょっと待ってよ!勝手にそんなこと決めるんじゃない」
欧米としてはトラブルの火種を追っ払いたかった部分もあるのかな?とにかく、その火種は中東に投げ込まれてしまった。新たな戦乱の幕開けである。続きは次回。
海外旅行に行くという事
近頃の若者は海外旅行に行かなくなったそうだ。旅行会社はなんとか若者に興味を持ってもらおうとさまざまな若者向け海外旅行プランを提供してるようだ。それがまた格安なんだな。例えば「ヨーロッパ(価格:7日間で7万7700円)」や「グアム4日間・ソウル3日間(価格:1万9800円)」ほとんど利益はないらしいよ。いわば先行投資をしているようなものなんだ。
JTBの社長がテレビで言っていた。「とにかく一度は行ってみてほしいんです。海外旅行の楽しさを知ってもらえれば、後にお客さんになって頂けますから・・」的を得た発言だと思う。
実はこの僕も、海外旅行にはあまり興味がなかった。でも縁あって一度行ってみたらもう大変。虜になってしまった。その経験だけでしばらく幸せな気分になれたし、ある意味、旅行代金以上のものをもたらしてくれたのだ。
確かに海外旅行なんて行かなくてもどうってことはない。何かの役に立つとも限らない。自分の国でさえほとんど知らないのに、他の国へ行くのも順番が違うのかもしれない。それを承知で書くなら、「でも、面白いよ。一度は行ってみなよ。」って僕は言いたくなる。何故なら僕自身の内面に劇的変化があったからに他ならない。
僕らは映画やテレビで世界の風景や現実をを簡単に観ることができる。でも所詮、それは知識であって、体験ではないのだ。たとえばこんなこと。テレビゲームが簡単な例。当たり前だけどレースゲームをすることと、実際運転する事は違うよね。どんなにゲームがシミュレートされてても所詮現実には敵わない。そもそも脳がそれを現実として鼻っから認識するはずもない。いわゆる五感を全て使わないし、使ったとしても限定的なもの。(視覚なら画面上だけ。実際はもっと広いよね)「みんなのゴルフ」の達人になっても、当然ゴルフをするリアルな感覚があるはずもない。脳はそれを体験として認めてくれない。(ゲームという体験は認めてるけどね)
人は旅行に限らず、脳が体験と認めた時に、ほとんどの場合内的な変化をもたらすと僕は思う。だってどんなものでも初体験した時って、内的世界が広がりません?SEXだってそうだし、バンジージャンプしたときだって、マラソン完走した時だって、その後の自分は違う自分じゃないのかなあ?体験によって、その人の内的世界の枠は広がるはずなのだ。もちろん、外的世界(現実)には変化はほとんどないかもしれない。生活が変わるわけじゃないし、いつもの日常が待っているだけかもしれない。でも人によっては人生を変えることになるかもしれない。
でもね。体験たって、良い体験したいよね。悪い体験なんてなるべくしたくない。で良い体験で一番手っ取り早いのが海外旅行じゃないかな?どこでもいいけど、遠いに越した事は無い。行ったという事実が大事。何もそこでハプニングに遭わなくてもいい。無理に現地の人と話さなくてもいい。ただそこに居るだけでいい。脳はしっかり体験として受け止めてくれる。そして君は確実に世界と繋がる事ができるのだ。言い過ぎ?
繋がった実感さえ持てば色々面白い事が出てくる。テレビや映画で自分が行った街や国が出てくると、かじりついて観てしまうし、その国の事をもっと知りたくなる人もいるだろう。グローバルな視点が無意識に備わっていくし、物事を相対的に観れるようになるかもしれない。当然また行きたくなるかもしれないし、次は他の国に行きたくなるかもしれない。もちろん、全ての人に当てはまるわけじゃないよ。一度行ってダメだった人は、性に合わなかったと諦めるしかないけどね。
ただね。内的世界が広がったから何なの?って言われたらそれまでなのよ。僕はそこで偉そうなことは言えない。自分のためになるとか、勉強になるとかね。僕が言えるのは「面白い」それだけ。それでいいと思う。
僕はモルジブの海に衝撃を受けたし、感動もした。テレビで観てもその感覚は味わえない事を知っている。ベルリンの壁の前に実際立ったり、ブダベストの集団住宅を目の当たりにすれば、社会主義について考えてしまう。社会主義時代について書いた本を読み、映画も沢山観た。ウィーンの街を歩けば、モーツァルトも意識して聴くようになるし、ハプスブルグ家の歴史にも興味が湧く。体験を通して得る知識は深く染み込んでいく。世界の一端に触れると、行ったことがない国にもアンテナを張ることができるようになる。そういったことが実に面白い。こんなのは個人的な戯れにしか過ぎないけどね。
そういったことが出来るのは恵まれてるとしかいいようがないよね。世界を見渡すと、実に贅沢な遊びだって思う。最近ではガザにイスラエルが侵攻したニュースがあった。沢山の人が死んでいる現実がある。こういうのがあると、罰当たりな気がしないでもない。でも日本は有り難い事に単一民族国家であり、海に囲まれてることで国境間の緊張なども少ない。不況とはいってもそれなりに豊かだ。僕らは海外旅行に行くチャンスを手にしている以上、そのカードは使ってみるべきだと思うよ。
旅行会社の回し者みたいなことを書いてしまったな。でもね、一度は行ってみてほしいのよ。僕は理屈っぽいことを言って博識ぶるんだけど、所詮体験してる人には敵わないって思ってるんだよね。アメリカに詳しくなったけど、行った事ある人には一目置いちゃうし、どんなにサッカーを熱く語っても、本場に観に行った人には敵わないしね。やはり知識より、体験なのよ。体験に勝るものはないのだ。それを結論として、今日はこれまで。